「仕事に遅れそうになって、走って駅のホームへ行く途中で、階段から転げ落ちたんだよ。駅員さんに聞いたら、貧血を起こしたみたいに前のめりに倒れこんだんだって」
 迦陵は、杏珠が皿からはじき出したピーマンをフォークでひっかけながら言った。
 勝手に弟が注文したグリーンサラダとサンドイッチを杏珠は持て余している。
 朝食を抜いたことで杏珠が貧血を起こしたと思い込んでいるらしく、やたら食事をしろとせっつく。
 ちょうど昼食時であったためファミリーレストランは、混雑している。
 オフィス街ではないので、子供連れの母親たちの姿が多い。小さな子供が騒ぐ中で迦陵は、きのこのスパゲティをほとんど食べ終えていた。
 検査の後、医師からの説明では異常はなかった。すぐに家に帰ってもいいということだったので、病院近くのレストランへ立ち寄ったのだ。
 迦陵の話によると杏珠は、駅までたどり着いていたらしい。駅の階段から落ちたということになっている。
 アザゼルを巻き込んで落ちた階段は、駅の手前にあるポストの脇だったはずだ。
 そのまま気を失っていたなら、病院の中でイリアと会ったことも、財布をなくしたと迦陵に迎えに来てもらったことも夢だったのか。
 夢だとすれば、アザゼルのことも納得できる。
 遅刻寸前でパンを咥えて全力疾走中に男の子とぶつかるのは、昭和のラブコメだ。最近の恋愛シミュレーションゲームですら、そのパターンはないだろう。
 杏珠は、きまりが悪くなって窓の外を見た。
 テーブルの向こうにいる迦陵と目を合わせることができない。

「この後どうする。会社も休むって俺、連絡しちゃったけど」
 自分で連絡したつもりが、迦陵が電話したことになっている。
 どこか、まだ夢をみているような頼りない気持ちだった。
 あの男を思いだすと、やるせなくもどかしい想いに身体の内側から炎で炙られているような錯覚を覚える。
 忘れたい。考えたくない。
 それなのに、彼の匂いや声が体中にまつわりつくように離れない。
 思い出せば胸が潰れそうに苦しい。
 窓ガラスに泣きそうな自分の顔が映っている。顔から火が噴くように熱かった。



 サラダとサンドイッチの皿を迦陵のほうへおしやって、代わりに迦陵が注文したアイスコーヒーを引き寄せる。自分のグラスはすでに空になっていた。
 ストローで半分ほども飲んでしまってから、ようやく一息つく。
 ひどく喉が渇いていた。
 自分でもおかしなくらい緊張している。グラスをつかんだ手が震えていた。
 いつまでも、夢とも幻ともつかないものに惑わされてはいけない。
 できるだけ平静を装いながら杏珠は、ゆっくりと言葉を探す。
「あたしはいいけど、学校は」
「俺も休み。せっかくだから、どっか遊びに行こうぜ」
 妙に迦陵がはしゃいだ声を出した。
「遊びに、って……どこ行くのよ」
「どこでも、杏珠ちゃんの行きたいところでいいよ」
「行きたいところなんて……」
 言いかけて、不自然さにようやく気づいた。
「あんたがそんなこと言うなんて、珍しいわね」
 珍しいというより、初めてのことだ。いい歳した姉弟がふたりで、でかけるなんて普通はあまりないことだろう。
「迦陵……お姉ちゃんに何か、隠しごとでもしてるの」
「別に、どうしてそんなこと思うわけ?」
 さっきまでの機嫌よさから、いきなりむっつりして迦陵は答えた。
 まるでこれ以上何も聞くなと言われているような気がして杏珠は、黙って苦いコーヒーを啜った。
 なんとなく迦陵が隠していることが判ったような気がしたのだ。

「映画も面白いのやってないしな……カラオケにしよっか」
 杏珠がそう言うのを迦陵は、心底ほっとしたようだ。
「あたしのリクエストどおり歌うのよ。判った?」
「俺、食ったばっかりなんだけど」
「何よ。あんたから誘っておいて、文句あるの」
「ありません」
「家族でカラオケってずいぶん前に行ったきりね。迦陵は彼女の前でどんなの歌うの?」
「歌わないよ」
「なんで、あんたなら歌で女の子が口説けるよ」
 まんざら冗談でもなく言った。
 迦陵は歌や楽器が巧い。小さい頃には、一緒にピアノを習っていた杏珠をあっという間に追い越してしまった。そういえば迦陵の名前も歌の上手な極楽鳥に由来している。
 両親の名づけ方は、昔からいい加減だ。
 杏珠の名前は安産祈願の寺で頼んだものだし、迦陵は檀那寺の住職が名付け親だった。
「べつに、興味ないし」
「興味ないって、女の子に?」
「変な言いかたするなよ。恋愛に興味ないってこと」
 妹と同じ男をとりあうような姉のせいで、恋愛にいいイメージがないのか。
 ふと、そんなふうに杏珠は思った。
 口をつぐんだ姉に、迦陵は困ったように眉根を寄せてしかめっ面をする。
「昔から言うだろう。真実の愛は亡霊のようなものだ。って」
「幽霊?」
「誰もがそれについて話をするが、それを見た人はほとんどいない」
 すぐには言われた意味が判らなかったが、少ししてから、ああ……と呟いた。
「あのさ。俺は赤の他人のことで頭をいっぱいにして、人生をムダにしたくないわけよ」
「生意気ね……」
 そう言いながら杏珠は、急に笑いがこみ上げてきた。



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