目を開けると、涙が零れた。
 なぜ、泣いているのか自分でも判らない。
 何度か瞬きを繰り返すと、歪んだ視界がやがてはっきりとしてくる。
 白い布が周囲にはりめぐらされ、天井も壁も真っ白だった。
 身じろぎすると糊のきいたシーツがまつわりつく。
 エタノールの匂いだろうか。金属の触れ合う音。人のざわめきが遠くで聞こえる。
 しばらく、ぼんやりと目を開けたまま天井を眺めていて、ようやくここが病院だということに杏珠は気ついた。
 白いカーテンで仕切られたベッドの上に寝かされていたらしい。
 でも、どうして……?
 自分の置かれた状況がつかめない。
 すぐに思い浮かんだのは、イリアのことだった。

 ――彼がいない。

 ベッドから飛び起きるようにして、周囲を見渡す。
 カーテンをつかんで開くと、そこに背の高い男がいる。
 イリアではない。反射的に身を隠すようにシーツを握り締めた。
 華奢な肩と茶色がかった髪。見覚えのあるコットンの白いシャツを見てようやく気づく。迦陵だ。
 こちらに背を向けて、点滴用の薬液入りのバックを持った看護士となにやら話し込んでいるところらしい。
 杏珠がカーテンを開けたことに気づき看護士は、にこやかに言った。
「気分はどうですか。吐き気は」
「……いいえ」
 喉がかすれて、自分でも驚くほど小さな声しか出ない。
 あわてて唾を飲み込んだ。

「急に起き上がったら、また貧血起こすよ」
 迦陵は手を伸ばして、杏珠の肩に触れようとした。
 びくっと身体が硬直する。
 過剰な姉の反応に迦陵は驚いたようだ。宙をさまよわせた手をそのまま下ろした。
 弟は困惑している。
 申し訳ない気持ちになったが、何をどう言えばいいのか、自分でも混乱している。
 シーツで胸元をしっかりと押さえていたが、気持ちは落ち着かない。いいようもない不安ともどかしさに、また涙がこみあげてきそうになるのを必死でこらえた。

「あたし……なんで、ここに……」
 よそよそしい姉に迦陵は、寂しげに微笑んだ。
 何かよりどころをなくしたような、迦陵らしくない笑い方だった。
 外見こそ物静かでおとなしそうだが、姉よりもはるかにしっかりしている。受験の時でも不安げな様子などみせたこともなかった。
「貧血を起こして倒れたんだよ。覚えてないのか」
 そう言われて杏珠は、顔が熱くなった。にぎりしめたシーツにいっそう力が入る。
 まともに弟の顔が見られない。
 おそるおそる着ているものを確認したが、ブラウスのボタンはきちんと留められていた。
 スカートも穿いている。とりあえず服装の乱れはない。
「駅の階段から落ちて擦り傷ぐらいで済むなんて、本当に運がよかったよ」
「階段。駅の?」
 そばにいた看護士が振り返ったので、杏珠は口を押さえた。

 ――貧血を起こした。それも駅の階段……。

 階段から落ちたのは、駅に行く途中のことだ。アザゼルを巻き添えにして……。
 そういえばアザゼルの腕はどうなったのか。
 それよりイリアがいない。
 杏珠の中でイリアの不在が焦燥と不安の根源となっていた。
 なぜ、こんなにも緊張しているのだろう。
 まるで、孵化したばかりの雛が親鳥を探しているようだ。
 あんなひどいことをされたのに……。

「脳震盪を起こしたときにはね。何がおこったのか理解できないことも多いんですよ」
 看護士は杏珠の脈を測る。
「え、脳震盪? 貧血って……さっき」
「貧血を起こして階段から落ちたときに、頭を打って脳震盪を起こしたらしいんだよ」
 戸惑う杏珠に迦陵が答えた。
 その間に看護士は血圧計の用意をして、杏珠の腕にカフを巻きつけ聴診器を当てる。
 血圧を測り終えると体温計を差し出しながら、看護士は先ほどと同じ質問を繰り返した。
「すぐに先生がいらっしゃいますからね。吐き気はありませんね」
「先生、先生って、あの!」
 体温計を受けとり損ねて床に落とした。
 あせるあまり舌がこわばる。言葉が出てこない。
 年配の看護士は、検査器具をかたづける手を止めた。
「脳外科の斉藤先生ですよ」
「外国人の先生じゃ……」
「いいえ、日本人ですよ。もちろん」
 看護士は、落とした体温計を拾い上げ酒精綿で拭く。もう一度差し出されて今度は慎重に受けとった。
 手が震えるほど、動揺していた。
「ここの病院に、金髪で……右目に包帯を巻いた先生はいらっしゃらないんですか」
 ほとんど泣きだしそうな気持ちになりながら杏珠は、なおも尋ねる。
「さあ、そんな方はいらっしゃらないですね」
「先生じゃなくて、検査技師とか」
 あきらめきれず、看護士に詰め寄った。
 なんでもいい。
 彼がいたという手がかりが欲しかった。
「若い人は髪を染めていたりするけど、院内ではちょっとね。それに怪我をしている職員もいないと思いますよ」
 看護士は苦笑している。
「患者さんでは!?」
「どうしたんだよ。杏珠ちゃん」
 迦陵が割り込んできた。
 なんともいえぬ奇妙な顔をしている。打ち所が悪かったのかと、本気で心配しているらしい。
「ここ、眼科ありませんから……それより、物が二重にぼやけて見えたりしませんか。耳鳴りは」
 杏珠のもの狂おしい様子に、看護士の表情も真剣になってきた。
 幻覚を見ていたと思われているらしい。

 自信がない。あれが現実だったのか。
 それでも冷たい指先。唇の感触。肌にまつまる彼の長い髪。微かな匂い。
 夢だったと、思えなかった。生々しいほどに彼の残していったすべてが、身体のあちらこちらに残っている。
 杏珠は、自分で自分の身体を抱きしめた。
 何が現実で、夢なのか。判らなくなっている。





 杏珠の行動がよほど奇異に見えたのか。看護士の言うとおり、すぐに医師は来た。
「吐き気もないようですし、大丈夫だとは思うんだけど。念のためにCT撮りましょうね」
 眼鏡をかけた五十過ぎぐらいの女医は、愛想良く言う。
 会った途端、がくっと力が抜けるような気がしたのは、もしかしたら……と、期待していたらしい。
 我ながら馬鹿だ。
 そう気づく程度には理性は回復していた。
 検査の前にトイレに行きたいと言うと、看護士が個室の外まで付き添ってきた。
 記憶障害だけではなく、平衡感覚を失っていることを危惧したらしい。完全に回復する前に、強い衝撃を受けると脳に障害が残るそうだ。
 ストッキングは転倒したときに破けたらしい。下着も普通につけている。
 ただトイレを使ったときに、ひどく沁みたことだけがいつもと違っていた。
 こんなのって……まるで。
 杏珠は、奥歯をかみ締めた。怒りとも悲しみともつかない言いようのない苦い感情が胸の底から湧き起こる。
 あれが夢であろうとなかろうと、二度とあの神父のことなど考えない。
 惨めになるだけだ。
 意識下に願望があったのだろうか。だから、あんな夢を見たのだろうか。



inserted by FC2 system