イリアをもっと近くに感じようとして、杏珠は彼を抱きしめる。
 彼の背が広くどんなに手を伸ばしても回りきらない。それでも腕に力を込めて、よりいっそう近づきたいと思った。
 イリアと自分を隔てるものをすべて服やこの肌、水気の多い肉体すらもいらない。彼の中に溶け込んでしまえればいい。
 ゆっくりとイリアの手が自分の髪を、肌をまさぐるのを感じていた。
 冷たい手の感触が快く、何もかもを投げ出すようにして任せきってしまう。
「はあ……」
 唇が離れると杏珠は、思わずため息がもれた。
 心臓の音だけが、やけに生々しく耳につく。
 広い胸の感触。あるかなしかの体臭とまじりあう香を吸い込んで、たまらないほど幸せな気分になれた。
 イリアを見上げると、自分とは比べ物にならないほど涼しげな顔をしている。

「お前……本当に少しも目が離せんな」
 イリアの低い声に全身が総毛立つ。
 まるで呪縛のよう、身動きもできなくなる。
 やっぱり彼は知っているのだ。
 画廊のイドリース。腕を折ったアザゼル。
 望んだことではないにしろ、他の男にされてしまったことを思い出して、杏珠は総毛立った。
 自分から抱きついたにもかかわらず、あわててイリアの腕から逃れようともがくが、身動きひとつできない。
 ふいに耳朶に生温かいものがぬるりと入り込んで、杏珠は悲鳴をあげた。背筋をこわばらせ身をよじる。
 それが彼の舌なのだと気づくのには時間がかかった。
 咽喉が干上がり、体中が一気に燃えあがる。
「や、やだ……」
「俺がいやか。他の男がいいとでも」
 イリアは咽喉をならして、さも面白そうに笑った。
 わざと言ってる。
 あたしの気持ちなんて、この人はお見通しなんだ。
 泣き喚きたいほどの悔しさと情けなさで、杏珠はイリアから顔をそむけた。
 耳の輪郭を舐められ吐息を吹き込まれて、もうそれだけで震えが止まらない。

「ち、違う……のに」
「なんだ?」
 完全に面白がっている。
 今、自分が男の手の上で遊ばれているのが判りすぎるほど判っているのに、それでも誤解されてしまうのではないかと思うと不安で泣きたくなった。
 身体の奥に疼くような熱があって、それがじりじりと広がっていく。
「やだ……イリアじゃなきゃ、や……」
 自分でも笑ってしまうほど、甘えきった声が出てしまう。
 なんで?
 こんなの、媚びているようだ。
 恥ずかしさに、息さえも止まりそうな心地がする。
「やっ、もう……」
 言葉は押しつぶされて、くぐもった。
 二度目のくちづけが、頭を麻痺させる。
 深く重ねられた唇から舌が侵入して、逃げる杏珠の舌が絡めとられた。
 強く吸い上げられて、微弱な電流を流されたように身体が震える。
 思考は蕩けて何も考えられない。
 眼の奥が熱く、きっと充血したように赤くなっているにちがいない。
 獲物をゆっくりと検分するように、ブラウスの下へとイリアの手が滑り込む。
「……っう……!」
「こんなに震えて……まるで小さな仔兎のようだ。それほど俺が恐ろしいか?」
 寄り添い杏珠の胸元へ頭を寄せ、からかうようにイリアが言う。
 唇を噛み締め、必死で拒絶しようと手足を動かすが、まるで力が入らない。

 解放して欲しい。
 このまま、ずっと放さないでいて欲しい。
 相反する想いに、杏珠は捕らわれた獲物のごとく動けずにいた。
 長い節くれだったイリアの指先が、ブラウスのボタンを外していく。
 白いレースのキャミソールとブラの中へ無遠慮に男の手が伸びる。
 素肌に触れられて、杏珠は眼を見開いた。
 すぐ目の前に、イリアの隻眼がある。
 驚いてその眼を見ていると、どこまでも深いところへ吸い込まれそうな気がする。
 このまま堕ちれば、イリアはローマの夜のように愛してくれるのだろうか。
 まっすぐに見つめられて杏珠は、息が止まった。
 自分と同じ狂おしいほどの想いを、その赤い隻眼の中に見出せはできないのだろうか。
 杏珠はすがりつくように、イリアを見上げる。
 やがて黄金色の髪と同じ色の睫毛が伏せられ、その表情を隠した。



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