杏珠は、ドアを開けた途端、その場から動けなくなった。
 まるで足から根が生えたようだ。
 このままドアを閉めて、逃げ出そうと思えばできる。
 逃げるべきだ。
 冷静な自分が言うのに、もう一人の自分は、このまま行って真相を確かめろとそそのかす。

「どうした」
 静かな低い声。イドリースともアザゼルとも違う。
 耳の芯まで染めていくような低く艶やかな声音。
 その低い声に心臓を鷲づかみにされたような気がして杏珠は、思わず眼を閉じた。
 だが、瞼の裏ではあの隻眼が焼きついている。精神は残らず吸い取られてしまう。
 不意にイリアが立ち上がる気配がした。
 ゆっくりと近づいてくる足音。
 一歩、二歩。近寄られた分だけ、大気の密度が増すような気がした。
 そんな息苦しさにいたたまれなくなり、杏珠は後ずさりする。
 眼を閉じると、いっそうはっきりと判る自分自身の心臓の音。彼がそこにいるという気配。

 この男に逢いたかったのか、そうではないのか。
 ただ、イリアがそこにいるというだけで、杏珠はわけもなく泣きたくなった。
 不快や悲しさからではなく、かといって嬉しいというわけでもない。
「なぜ、俺を見ない?」
 ほとんど耳もとで囁くように言われて、思わず眼を見開く。
 くちづけせんばかりに、近づいてこられて腰が引ける。
 だがイリアは、すばやく杏珠の二の腕をつかみ引き寄せた。
 彼が着ているのは白衣なのに、ヴァチカンで逢った時と同じ、不思議な香木の匂いがする。
 それまで鼻についていた病院特有の臭気のようなものが消えた。
 澄み渡るような爽やかさと、魂を包み込まれるような優しい匂いはどこか懐かしい。
 そうだ。これはヒマラヤ渓谷の大地で収穫されるというジャタマンシィ。
 神秘的でセンシュアルなジャタマンシィの香りだ。
 聖書ではナルドと呼ばれる香油。
 どうして、自分がそんなことを知っているのか判らない。だが、昔どこかで誰かに教わったような気がした。
 それが誰なのかは、思い出せない。
 ただ、こうしているとやるせなくもどかしい思いに、この身がさいなまれる。



「……見てる」
 喉から絞り出すようにようやく言えた。
 うまく平常心を装うことにのみ、杏珠は神経を集中する。
 これほどまでに動揺している自分が恥ずかしかった。
 イリアの目の前にいる自分が、彼にどう映っているのか。
 そんなことばかりが気になった。
 道で転んだせいで服は汚れている。
 髪だって乱れてぼさぼさになっているかもしれない。アザゼルのせいで、グロスもすっかり剥げているだろう。
 今の自分の姿を思い出して杏珠は、いっそう悲しくなった。

「ちゃんと見てるよ。貴方なんて怖くもなんともない!」
 怖くないと言った時点で、自分が本当に怖がっているような気がした。
 自分が他の男にされたことをイリアが気づいてしまうのではないかと、そう思うと杏珠は落ち着かない。
 心は絶え間なくざわめき、血が頭にのぼる。
 喉に石を詰められたように息苦しい。
 どうしてこんな思いに囚われるのだろう。こんな得体の知れぬ相手に……。
 せつなさとしか言いようのない。悩ましくて途方にくれるようなこの気持ちを自分でももてあましていた。

「どうして、貴方がここにいるのよ。その格好は何、まさかお医者さんなんて言わないでしょうね」
 胸の底を悟られまいとして、杏珠はまくしたてるように言った。
 顔に血がのぼる。
 まるで、小学生みたいだ。好きな男の子にそうとは言えなくて、わざと不機嫌な顔をしてみせる。
 違う。そうではない。好きなはずがない。
 偶然の出逢い。行きずりの相手にしか過ぎないのだ。
「ヴァチカンの人が、なんでそんな……」
 なおも言い募ろうとするとイリアは、片手で二の腕を離さないまま杏珠の顎から頬をつかみあげて、強引に唇を押し付けてきた。
 慌てて、逃れようと身じろぎするが、彼はつかんだ手をゆるめようとはしない。
 目を見開いてもがくが、背の高い彼に抱きしめられてほとんど、爪先立ちの状態で動くこともでなかった。
 イリアの舌が唇を割って、中に入ってくる。
 ざらりとした舌の感触が歯列をなぞり、かみ締めていた歯がふいに緩んで、さらなる侵入を許してしまう。
 むさぼるような深いくちづけに、しだいに杏珠は陶然となっていく。
 一方的に襲われていたはずが、イリアのくちづけに応えるように、杏珠自身も舌を絡めた。
 身体の奥の方で、炎が噴出すような感覚。
 炎に炙られて、内側から燃えつくされそうだった。
 自分の奥で燃え盛る炎を鎮めたい。身体ごと心まで抱き取られるようだ。
 気がつくと、杏珠は泣いていた。
 狂おしいほどに身も心も揺さぶられ、自分が今までの自分とは、まったく別の人間になってしまったような気がする。



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