迦陵が入って行った後、入れ替わりに処置室から若い女性の看護士が出てきた。
 待合室を見回して杏珠の姿を認めると、まっすぐにナースシューズの底をきゅきゅっと鳴らして、杏珠の前までくる。
 先に迦陵が説明を聞きに行ったはずだが、何があったのだろう。にわかに緊張感が増す。
「結城杏珠さんですね」
 はっきりとした声で確認され、杏珠は舌をもつれさせながら返事をする。
 迦陵がいないことが、さらに不安をあおった。
「医師からお話があります。どうぞ、こちらへ」
 震え上がりそうなほど緊張しながら杏珠は、看護士にうながされて、よろよろと立ち上がった。
 救急車で搬送される時に、救急隊員からアザゼルは質問を受けたのだが、なぜか彼は日本語で答えようとはしなかったのだ。
 まるで言葉が通じないようなふりをして、イタリア語をまくしたてるように喋りだした。
 驚いたのは隊員だけではない。
 先ほどまで、流暢な日本語を話していた相手の突然の変わりように、杏珠もどうしていいのか判らなくなった。
 何度も日本語で話しかけたが、アザゼルは眉間に皺を寄せ傷の痛みのせいか、あからさまに不機嫌になっていく。
 まだ英語ならともかく隊員たちもこれには閉口して、杏珠に代わりに答えさせたのだ。
 もっとも、杏珠にも彼のことは何も知らないし、イタリア語も判らない。
 住所など身元に関することなどは、杏珠自身のことを書かされてしまうはめになった。
 看護士が来たのは、やはり今後の治療方針について、説明をうけるのだろう。
 治療費に関してのことなら、おそらく受付で言われるはずだ。
 とりあえず、それくらいのことならできる。イタリア旅行でかなり使ったとはいえ貯蓄もいくらか残っていた。
 問題は金銭面より、彼の腕のことだ。
 アザゼルの一生を左右することになりかねない。










 救急搬送される処置室からは、かなり回り込んだ場所にある部屋へと杏珠は案内された。
 長い廊下を看護士は先に立って歩くのだが、その間、誰ともすれ違うこともない。
 病院にしては、ずいぶん静かだと思った。
 窓のない廊下を、蛍光灯の青白い光だけがリノリウムの床を照らしている。
「こちらです」
 看護士は言葉少なにそれだけ言うと、杏珠に背を向けてさっさと行ってしまった。
 残された杏珠は、白い扉を前に少し迷ってから、軽くノックをしてみた。
 中からの返事はなかったが、思い切って押し開けることにする。
 もう一度ノックをするべきかもしれなかったのだが、病院で診察室のドアをノックしてから入ることもなかったのを思い出した。
 たいていはそばにいる看護士が返事をしてくれるものだが、医者はそんな瑣末ごとにいちいち答えてくれないのかもしれない。

 医師は確かにそこにいた。
 革張りの肘つき椅子にゆったりと座っている。
 多分、彼が医師だと思われた。他に人はいない。
 だが本当にそうなのだろうか。
 白衣を着て、きちんとネクタイもしているのに、髪ばかりが不似合いに長かった。
 広い肩幅がなければ、女性と見間違えたかもしれない。いや、女性というには、しっかりした頬から顎の線。節の高い大きな手。



 まさか……と思う反面、そんなはずがないと自分の考えを打ち消す。
 ありえるはずがない。
 蜜のような見事な黄金の髪は肩をすべり落ち、床にも届きそうなほどだ。
 その美貌を隠すように右側に巻かれた包帯。
 残された左の鋭く暗い隻眼。
 見つめられると気圧されるような、それでいて妖しいほどに蠱惑される。
 まるで悪魔の眼だ。とりこめられたらきっと、一緒に地獄の底まで堕ちてしまう。
 鼓動が血管を圧迫する。
 杏珠は息が止まりそうな気がした。

 ヴァチカンで出逢ったあの司祭が、目の前にいる。



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