朝の病院は通院患者が多いはずだが、救急搬送される場所は通常の診察をする場所とは違うらしい。
 救急隊員とともにアザゼルが自動ドアの向こうに消えてから杏珠は、待合室のベンチにぼんやりと座っていた。
 病院側からの説明は、まだない。
 相手は立派な大人なのだし、ここで帰ってしまっても差し障りはないはずだ。
 アザゼルのおかげで、杏珠自身がかすり傷一つなかったのだが、それも彼の痴漢行為により帳消しになるだろう。
 このまま帰ろうか。いや、それは人としていけない。どんなに腹立たしい相手でも……。
 やはり彼の家族に連絡するべきだ。
 そうは思うが、できれば彼とのこれ以上の接触は避けたい。

 自分の勤務先への連絡がすんだ後、杏珠はバックに財布がないことに気づいた。
 家を出る前から忘れてきたのか。あるいは転んだときに落としたのか。
 幸い財布にはクレジットカードなどの類はなかったのだが、この病院から最寄り駅までのバス代がない。
 病院で借金をするわけにもいかず、自宅へ電話して持って来てくれるように頼んだ。
 おそらくアザゼルは入院することになるだろう。
 入院……そうなったら、やはり責任は自分にあるのか。杏珠は重い気分になった。
 自分自身のせいで、他人に怪我をさせてしまったのだ。いやだからといって、このまま帰るわけにはいかない。

 ベンチに座る杏珠の前を、清掃係の職員が通りすぎる。
 朝早くから救急車で運ばれてきた患者は、アザゼル以外に高齢の男が一人。
 その家族らしい中年の男女が杏珠と同じく待合室で不安げな顔をして小声で話をしている。おそらく息子夫婦なのか。
 これが夜間なら、様子はもう少し変わっていたのかもしれない。
 突然、荒々しく正面にあるガラスのドアが押し開かれた。
 救急隊員が入ってきたのかと思ったが、そこに見馴れた姿が現れる。
 弟だ。
 栗色の髪が乱れ、汗の玉が額に浮いている。よほど急いできたのだろう。

「杏珠ちゃ……どうし、て?」
 呼吸も荒く弟は、杏珠の顔を見ると笑った。
「あんたこそ、どうして?」
 杏珠はベンチに座り込んだまま、相手の言葉をくり返した。
「まさか、迦陵かりょうがきてくれるなんて」
 安堵のあまり吐息が漏れる。
 杏珠は、弟の大学が近くにあることを思い出した。
 だが、自宅へ電話してからまだ十分ほどしかたっていない。いくら近いと言っても早すぎる。
「ため息をつきたいのはこっちだ。怪我はなかったのかよ」
 口ぶりはぶっきらぼうだが、その面差しは優しげだった。
 ふわりと杏珠の隣へ迦陵は腰を下ろす。
 長身だが、まるで鳥のように身軽な動きだ。
 弟は、ほっそりとした華奢な体つきをしている。そのせいか、背が高いにもかかわらずアザゼルと違って、威圧感を感じない。
「母さんが病院からだって言うから、心配で……」
 そこまで言って迦陵は、杏珠を見てまた笑った。
「どこも痛くない?」
 もともと白い肌が走ったせいかほんのりと赤らんでいる。
 柔らかそうな前髪が汗で額に張り付いていた。
 よく通る声。微笑みを宿した細められた目。優しい面差しは母親譲りのものだ。
 弟と妹は母親似の美人だが、自分だけは父親そっくりの丸い顔をしている。人生ってちょっと不公平だ。
 そんなことを考えたのは、たぶんイリアやイドリース。それにアザゼルを見ていたせいかもしれない。
 気がつけば周囲には、美形ばかりだ。自分以外は……。



 待合室のベンチに二人並んで座って、杏珠は今までのことを説明した。
 一部、絶対に言えないこともある。恥ずかしいせいもあったが、何より迦陵の反応が怖い。
 家族の中でこの末の弟が、いちばんしっかりしているのだ。
 姉と妹の三角関係という身内からすれば、もっともやっかいな揉めごとさえ、二十歳そこそこの弟が仕切っていた。
 妊娠中の妹の新居を用意したのも迦陵だ。
 のんびり屋の両親よりも頼りになる存在だが、口うるさくもあった。
 迦陵は杏珠に怪我がないと聞くと、さっさと学校に帰ろうとしたのだが、巻き込んだ相手のことを聞くなり苦い表情をする。
「道でぶつかっただけで、骨が折れるなんてありえるのか?」
「判らない……でも、これって人身事故になっちゃうのかな」
 杏珠の頭の中で、慰謝料だの示談だのという単語が浮かぶ。

「そんな奴、放っておいて、さっさと会社に行けばよかったのに」
 弟にそう言われて、今さらながら、まったくその通りだと思った。
 ぐずぐずしていたから、キスなんてされてしまうのだ。
 わが身の馬鹿さ加減に情けなくなる。
 よく考えたら、相手は痴漢も同然なのだ。こんなことをして待っている義理などない。
 そうは思うのだが、骨折した腕がどうなるのか。不安でたまらなかった。
 もし、あのまま腕が動かなくなったらどうしよう。
 最悪のことしか、考えられない。
 病院側からの説明もなく、ただ待っているだけの状態がつらかった。そこへ現れた弟の存在は心底ありがたい。

「ねえ、迦陵。あたし……どうしたらいいと思う?」
 我ながら、情けない声を出したものだ。
 迦陵はわずかに眉を寄せて、困ったように笑った。
「俺が様子を聞いてくるよ。大丈夫そうなら帰ってもいいんじゃねえの」
 腰軽く立ち上がると、迦陵は躊躇することなく処置室へと向かった。
 それまで勝手に入ることもできずに、その場でおたおたとしていた杏珠とはまるで違う。
 迦陵が来てくれたことで、杏珠は精神的にかなり落ち着いてきた。
 まだ学生の弟に頼りきっていることが、恥ずかしい反面、申し訳ない気分になる。
 杏珠はベンチの背もたれに寄りかかって、ため息をついた。



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