鼻先がぶつかりそうになるほど顔を近づけながら、アザゼルはゆっくりと言葉を紡ぐ。
 群青の双眸に微笑を含む。
「お前の“願い”はすべて叶えられる」
 一瞬、言われた意味が判らなかった。
「望みさえすれば、それはすべて“現実”になる」
 薄荷草のような澄んだ空気が血の生々しい臭いにまぎれて、そこかしこに流れるのを感じる。
 それが彼の呼気だと、しばらくして気づいた。
 メンソール系の煙草なのだろうか。
 奇妙な違和感。
 どこか現実離れした今の状況。
 学園モノのお約束。
 遅刻寸前。パンを咥えて全力疾走中に曲がり角で、転校生――あるいは新任の教師――にぶつかり、恋が芽生えたら完全にラブコメだ。
 ただ杏珠も、おそらくはこの男も学生などではない。
 まだ若いが、彼の身のうちから発散する独特の気配は普通ではない。
 その身を包む不穏な空気は、あの神父に似ているようで、まったく違う。
 つり上がったきつい眼をしていても、彼のような蠱惑的なほどの恐ろしさなど欠片もない。
 同じ顔をしたイドリースにさえ、あんな身のうちを痺れるような、狂おしいまでの恐怖を感じたことなどない。
 こんな男に、呑み込まれることなどないのだ。

「望みなんて、何一つだって叶ったことなんか……なかった」
 深い群青の目を睨みつけるようにして、杏珠は言った。
 どうして願いが叶うことなど、あったのだろうか。
 愛したい。
 愛されたい。
 そんなささやかな願いさえも、叶わなかったのに。
 周囲の友達は皆、恋をして結婚して子供を産んで、それなのに自分だけ取り残されている。
 男には結婚適齢期などないが女には、それは確かにあるのだ。結婚ではなく出産の適齢期だ。
 恋をしたいが、ラブコメもハーレクインロマンスも今のところ必要ない。
 得体の知れない外国人や、妹にまで手をだすような軽薄な男などではなく、親に紹介できるような真面目でちゃんとした恋人が欲しい。
 あるいは、仕事で認められたい。
 便利に使われるだけの存在ではなく。きみでなくては任せられない……と言われたい。
 だが、現実はこれだ。
 会社では手軽なホステス役をさせられ、恋人には振られて、行きずりの男と寝た。

 理不尽に押さえつけられるのも、彼らにはただの遊びなのか。
 意味深な言葉ばかり並べて、肝心なことは何も言わない。
 ただのキス。
 彼らにはその程度のことなのかもしれない。かりそめの関係。ただ一度きりの……。
 思い出すまいとしても、嫌でもイリアの顔がまなかいをよぎる。
 忘れてしまいたい。
 あの手の感触、冷たい唇。絡んだ硬い金髪。
 どこか懐かしい不思議な香り。
 乱暴で予想もつかない彼の言動。触れられた場所が、今も燃えるように熱く疼く。まるで古い傷のように。
 もう放っておいてほしい。時間がたてば忘れられる。
 どんなに痛い思い出もそうやって、時間が過ぎれば記憶の底に沈む。
 それなのに、どうしてこうも思い出させようとするのか。
 あれは旅先でのアバンチュールに過ぎない。
 彼がどんなに美男でセレブでも、結婚相手には向かないだろう。
 普通に考えれば、誰にだって判ることだ。
 まだ、彼に比べれば、姉の恋人の子供を妊娠した妹の方がまだ現実味がある。
 今は相手の男の家に転がり込んでいる妹も臨月が近づけば実家に戻ってくるだろう。その時に自分はどんな顔をすればいいものか。



 アザゼルはわずかに目を眇めて、うっすらと笑った。
 およそ好意的とは言いがたい、どこか悪意のある嘲笑のようなものでしかない。
 あれほど情熱的なくちづけをした相手に向けるものではなかった。
 彼らは……たぶん、イドリースにしても恋愛感情からの行為ではないのだろう。
 それくらい恋に疎い杏珠でも察することができる。
 蹂躙された口をすすぎたい。できるものなら、この場で唾棄してしまいたいほどだった。

「何が不満だ。この世界は、小娘の願いどおりに“今の現実”を与えているんだぜ」
 きつく抱き寄せながらアザゼルは、小声で言う。
 声音はハスキーだが、イリアほど低くはない。
 顔を背けながら杏珠は、少しでも相手から距離をとろうとしてもがいた。
「こんな現実、あたしは望んでいないわよっ!」
「いや。世界は忠実に小娘の思いをそのまま映し出している」
「……意味が判んないわ」
 杏珠は思いっきり眉を寄せた。現実は目の前にあるそれだけだ。
 もう行かないと間に合わない。
 これだけ元気があるんだ。こんなヤツ放っておいても差し障りないだろう。
 彼にとってここは外国だが、こんなに日本語が上手なら手助けなどいらないはずだ。
 弟が学校で骨折したことがあるが、気がつかずに部活を続けていたこともあったくらいだし、……いや、こんなひどい骨折ではなかったな。
 骨が見えているあたり、もはや尋常ではない。
 本当に、見捨てられるものなら見捨てて行きたいところだ。
 とにかく一刻も早く処置しないと、このまま放っておくわけにもいかない。

「この世の法則だ」
「嘘よ。誰がこんな現実を望んだって言うのよ」
 だんだんと苛立ちが増してくる。
 やっぱり、こいつは見捨てても平気じゃないのか。
 時間がない。こんな男と関わりあっている場合ではないのだ。
 早く行かないと、美術館の事務所へ行って展示室の鍵をもらってこなくてはならないし、今日も審査員の誰かが来るのは間違いないのだ。

「小娘だろう?」
 杏珠が浮き足立っているのを知ってか知らずか、アザゼルは平然と言った。
「もし、この現実が“思い通りにならない”というなら、“思い通りにならない”ことを小娘が望んでいるんだ」
 からかっているだけなのか。そうだとしたら、こんな大怪我をしておきながら馬鹿だとしか言いようがない。
 そもそも“小娘”呼ばわりされることに腹が立つ。日本語が判っていないのか。
「あたしが今望んでいることは、あなたから解放されることだけよ。いい加減にして」
「それが望みなら……」
 意外なほど、あっさりとアザゼルは杏珠から手を放した。呆然と目の前の男の顔を眺める。
 あまりにも唐突すぎて、逃げ出すタイミングを失っていた。
「どうした。放して欲しかったんだろう。行けよ」
 アザゼルはそんな杏珠の反応を面白がるように言う。
 複雑骨折をしている手首からは、まだ血が溢れ続けている。まるで糸の切れた操り人形だ。血の気が失せ蝋のように真っ白になっていた。
「そ……そうだけど、その手」
「こんなもの、舐めておけば治る」
 言葉どおりアザゼルは自分の手首に唇をあてて、血を舐めていた。
 出血の量が多いので、そんなことをして間に合うはずもない。自身の血で服も顔も赤く染まるほど血は流れている。
 失血死……そんな言葉が杏珠の脳裏をよぎった。
 あわてて、あたりを見回しバックに入った携帯電話を探す。
 救急車を呼んで、それから会社にも電話して……。

「今、この瞬間さえ、現実は小娘の思うままじゃねえか」
「誰のせいで、こうやっていると思っているのよ」
 散らかった靴と一緒にバックは郵便ポストの傍らに落ちていた。慌てて引き寄せたが、バックの中にあるはずの携帯電話が見つからない。
「そりゃ、こっちのせりふだぜ」
 アザゼルは、広い肩をわざとらしくすくめて見せた。
 震える手でかき回して、ようやくバックから携帯を見つけた。
「のんびりしている暇はないのよ。あたしは会社に行かなきゃならないんです」
「それなら行けばいいだろう」
 脳内の血管が切れそうだった。携帯を怒りのあまり投げ出したくなった。
 だめだ。落ち着け……落ち着け、あたし。
 必死で自身をなだめながら救急車の番号を思い出す。110番だったのか、119番だったのか。
「仕事に行くより、俺の側がいいんじゃねえの?」

 ……本当に見捨ててやろうか。



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