何が起こったのか、理解できない。
 ただ唇をかすめる柔らかな、濡れた感触が残っている。

 ──キス。
 その単語が頭の中で思い浮かぶには、少し時間がかかった。
 見知らぬ男にされた行為がにわかに現実味を帯びて杏珠は、慌てて手の甲で口を拭おうとした。
 口許へ持っていった腕を、つかみあげられる。
 折れたらしい腕が杏珠の後頭部に回された。血の匂いがする。
 一瞬、恐怖で身体がこわばった。
 それを見透かしたように、再びアザゼルの唇が押し付けられる。
 閉じた唇から強引に舌が侵入して、固く食いしばった歯をなぞられた。
 イリアとは違う舌の感触。神父の唇はもっと冷たかった。
 あの燃えそうに赤い不思議な色をした眸の色とは裏腹に、冷たい唇だった。
 獣のような……むさぼり喰われるかのような激しいくちづけは息さえもできないほどだったのに……。

 頭に浮かぶのは、イリアのことばかりだった。
 ありえない現実から脳は、逃避しようとしているのだろうか。
 なぜ、こんな時にあの男のことを思い出すのか。自分でも判らない。
 あの神父ではない相手とのくちづけは、ただ気持ち悪かった。
 イドリースの時と同じ。まるでナメクジに襲われているような気分だ。
 嫌悪感にひきつけを起こしそうだった。

「んんふっ、んぐっぐぐっ!!!!」
 杏珠は必死で歯を食いしばったまま、もがいた。
 腕が折れているはずなのに、アザゼルの力は強い。
 しっかりと首の後ろを固定されて、身動きもできないのだ。
 なんで、こうも立て続けに襲われなきゃならないんだ。
 あたしが何かしたのか。
 この状況だから、絶対に誰か助けに来てくれるものだと思っていたら、通行人たちは遠巻きにして眺めているだけで、何もしてくれそうもない。
 せめて警察にくらい通報してくれてもいいのに……!
 世間の薄情さに泣きそうになりながらも、杏珠腹を決めた。
 相手を殴りつけでも逃げてやる。目か、股間……は嫌だ。気持ちが悪い。
 そうだ、咽喉を狙え。ここは急所の一つであるから、女の力でもなんとかなるはずだ。
 捕まれた腕とは反対の手をしっかりと握り、斜め下から顎を勢いに任せて打ち付ける。
 だが、相手はすかさず身を引いて、杏珠の攻撃を避けた。

「小娘……命の恩人に対する礼がこれか?」
 耳もとで囁かれて、びくっと身を竦めた。
 確かにこの男がいなければ、今ごろは自分のほうが骨折していたかもしれないのだ。
「だ、だから……病院に!」
「痛みで頭がどうにか、なったようだな。慰めようという気はないのか」
「なんでそうなるのよっ!」
「あ、腕の骨が皮膚を破って突き出しているぞ」
 アザゼルは杏珠の眼の前に、完全にへし折れた腕を見せ付けた。
「ひぃっ!」
 真っ赤な血が溢れているのが、現実のこととも思えないほどだ。
 本人が騒がないので、もしかしたら周囲は芝居をしているのかと思っているのかもしれない。
 だが杏珠の鼻先には、血腥ちなまぐさい匂いと、微かな香が交じり合っているのを感じる。
 ぽたぽたと落ちる血は色が、時間とともにどす黒く変わり、杏珠の顔や腕にかかった血も固く乾いていく。
 血糊や赤インクではない。
 手の甲のあたりの薄い皮を破って、白い骨が突きだしているのが見える。
 開放性骨折というものだろうか。医療系のドラマやドキュメンタリー以外で、こんなものを見たのは初めてだ。
 安易なスプラッターやホラー映画ではない。現実だと思うと、もうたまらなかった。
 ――カンベンしてください……!
 情けないが、もはや杏珠には相手を殴り飛ばして逃げようという気力はなくなっていた。
 応急処置はこの場合、何をすればいいのか。
 折れた腕に添え木を当てるのか。先に止血するべきか。

「このまま、腕がもげたら、俺の一生は台無しだな……誰のせいだ?」
「ご、ご、ごめんなさい。ごめん、なさい。なんでもいいから、早く病院に……!」
「なんでもいいからとは、どういう意味だ」
「お願いだから!」
「それで?」
 杏珠の腕をアザゼルは強く引き上げた。
 片腕一本だけで杏珠の身体は、宙吊りにされている。
 相変わらず周囲の助けもない。杏珠は恐怖でパニックになっていた。
「お願いします。病院に行って下さい!!!!」
 アザゼルは眼を据えて、杏珠の顔を覗きこんだ。
「小娘。ひとつ教えておいてやろう」



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