この時になってようやく、遠巻きにしていた野次馬にまぎれて、親切そうな中年の女がいそいそと割り込んできた。
「救急車を呼びましょうか」
 とりあえず、誰かが助けてくれそうだ。杏珠は、ほっとして力が抜けそうになった。
 まず、救急車……それから、後のことはその場で考えよう。
 だが、そう思ったのも、つかの間のことだった。
 応急手当だけでも、と伸ばされた女の手がバシッと音をたてて払われる。

「……触んじゃねえ」
 低い声が一喝する。
 杏珠はびくっと肩を震わせた。杏珠ばかりではなく、その場にいた誰もがその声に呑まれたように動けないでいる。
「何、気安く触ってやがる?」
 そのいかつい言葉を発しているのは、ほんの二十歳になるかならぬかの青年だ。おまけに怪我をしている。
 だが周囲の大人たちは誰も咎めることはおろか返事すらできない。
 杏珠は冷や汗をかきながら、なんとか男の腕がから逃れようともがいたが、なおも強く抱きすくめられて鼻がアザゼルの胸でつぶれそうになった。
 圧迫されて息が詰まる。声さえ上げられない。
 助けを求めるにもどうにもできない状態のまま足をばたつかせていると、アザゼルが言った。
「暴れるんじゃねえ。見えてんぞ」
「……え」
 言われた意味に気づくまでに、多少の時間が必要だった。
「白のレース付きか……色気のねぇ」
 白レースと言われてもまだ判らなかった。気が付くまでに、たっぷり十秒ほどもかかっただろうか。
 ようやく自分の下着の色を思い出して、顔から火が出そうなほど熱くなった。
 膝上のタイトなスカートだから、めくれるというより、暴れた拍子にたくしあがってしまったらしい。
 どうしてパンツスーツを着てこなかったのか、そんな場合でもないのに自分の馬鹿さかげんに改めて情けなくなる。
「見世物じゃねえ、さっさと行きやがれっ!」
 さらにアザゼルは吼えた。まるでチンピラだ。目つきも柄も悪すぎる。
 足音が聞こえて、周囲のざわめく声が遠くなっていくのを、杏珠は絶望的な思いで聴いていた。
 せめて、誰かが警察を呼んでくれることを祈るが、おそらく当てにはできないだろう。
 もっと自宅に近ければ近所の知人がいたかもしれないが、それも無理かもしれない。
 そもそも、あのポストの裏に階段などあったのだろうか。



「あ、あのですね。……あの」
 杏珠は唇を舐めた。冷静に――と自分に言い聞かせながら、ゆっくりと言葉を押し出すように言う。
「救急車を呼びますから、まずは病院に行きましょう」
「病院だと?」
「腕、折れてます」
 杏珠がそう言うと、アザゼルは広い肩をわざとらしくすくめてみせる。
「おお、これは、痛い。痛い」
 ほとんど棒読みで答えるのだが、痛くないはずがないだろう。
 まるでマネキンの腕がへし折れているかのように、人間の腕がぶらぶらしているのを、現実に見たのは初めてだった。
 白いシャツに血の色が濃く滲み、見ている間に手首から指先まで血が流れ落ちてくる。
 このまま、見捨てて逃げ出したかった。
 だが、そんなこと人間としてできるはずもない。とにかく自力でこの場をなんとかしなければならないのだ。
 ほかに助けはない。
「だから病院……」
「痛くて動けん」
「あたしが救急車呼んできますから」
 杏珠は、少しでもアザゼルから離れようと身じろぎした。それを骨折しているとは思えないほどの力で引き寄せる。
 何モノだ。こいつは……化けモノか。
 またしても涙が溢れそうになるが、のんびりと泣いている場合ではないのだ。
 いくら相手が映画やドラマに出てきそうな美形でも、こんな状況は御免こうむる。はっきり言って怖い。
 どこのラブコメでぶつかった弾みで、腕まで骨折するんだ。

「怪我人を見捨てるつもりか」
「いや、だから急いで救急車を」
「大の男がそんなもんの世話になれるか」
「なれるかって、たった今、怪我人を見捨てるつもりかとか、言ってたくせに」
「騒ぐな」
「……すいません」
 騒ぎを起こしたのは、どこの誰だ!?
 文句を言いそうになって、すぐに思いなおした。最初にぶつかったのはこちらだ。
「誰のせいでこうなった」
 まるで杏珠の心のうちを見透かすように、アザゼルは意地の悪い笑い方をしながら言う。
「ご……ごめんなさい……」
「悪いと思っているか」
 なんとも理不尽な気もしたが、杏珠はうなずいた。
 こんなことやっている場合じゃないだろう。一刻も早く救急車を呼ぶべきだろう。
 内心ではイライラとしていたが、口答えをして無駄に相手を怒らせても厄介だ。
「それなら肩でも貸せ」
「は、はい」
 何かとんでもないことでも言われるのではないかと、内心びくびくしていたのだが違ったのか。
 考えてみれば相手は怪我人である。
 イリアやイドリースのことがあったので、つい彼らがしたことを想定にいれてしまうのかもしれない。
 あんな変態行為をやらかすのは、やはりイリアくらいだろう。
 大きな手が肩にのり、ぐっとつかまれた。
 立ち上がろうとするアザゼルを気遣って、顔を見上げると、思いがけず端整な面差しが近くにある。
 高いところからなだれ落ちる水の飛沫を思わせるような鮮烈な激しさをはらんだ群青の双眸。その眩しさに杏珠は目を細めた。
 イリアのような独特の暗さや妖しげな雰囲気はない。そんな油断があったせいだろうか。
 あっと思う間もなく、唇を奪われていた。




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