まさかとは思うが、お約束どおりのことをやらかしてしまったのか。
 自分の全身から血の気が引いていくのが、はっきりと判った。
「重い、いつまで乗ってやがる」
 杏珠の尻の下から、ハスキーな低い声が恫喝するように言った。
 あたふたと腰を上げようとするが、その時になって足首がぐきりと痛んだ。
 声の様子はどう考えても、親切とはいいがたい。

 ――どうしよう。怖そうな人にぶつかったみたい。

 早く退かなければ、何を言われるか判らない。
 だが、あせるほど動けなくなってしまう。靴は片方どこかへ飛んでしまっているが、それを探す余裕もない。
 どこか捕まるところを探したものの、手助けをしようとまで言う者はいなかった。
 痛む足に重心をかけないようにしながら、そろそろと立ち上がる。思ったほどひどくはなさそうだが問題は、杏珠の下敷きになった誰かのほうだ。
 学園ドラマか、少女漫画ならここからラブコメが始まるところだが、現実はそうはいかない。
 よろけながら杏珠は、振り返って頭を下げた。
「す、すいません」
「すいませんで、済んだら警察はいらんぜ」
 相手は不機嫌そうな声を隠そうともせずに、ぶっきらぼうに答えた。
 まるでヤクザか小学生だ。
 その言いぐさに、怖気づくよりも腹が立ってきた。
 こっちだって別にわざとぶつかったわけじゃない。そもそもいつの間に巻き込まれたのか。
 確かに階段から落ちた時には人はいなかった。
 人目を避けようとして、わざわざ人のいないポストの脇へ行ったはずだ。
 アスファルトの道端に、座り込んだまま立ち上がろうともしない相手の顔を見たとき杏珠は腰が引けた。



 一瞬、ヤンキーかと思った。
 ヤクザというには若い。学生だろうか。
 この手の人種は、もう何十数年ほど前にいなくなったものだと思っていたのだが……もっとも、ここは渋谷の繁華街ではない。
 閑静な住宅地の中だ。行きかう人々も、わりと普通のサラリーマンや、ゴミ出しの主婦の姿もあった。
 先ほど声をかけてくれた人も、すでにいない。逃げ出せるものなら、杏珠もさっさと逃げたかった。
 皆、ちらちらと遠巻きに見てはいるのだが、近づいては来ない。
 この柄の悪い男を怖がっているようだ。
 デニムのパンツに白のTシャツ。髪の色は黒に近い褐色だが、肌の色は赤銅色をしている。ヤンキーではなく、どうやら外国人らしい。
 長めの前髪をかきあげると、きつい吊り上りぎみの眼があった。
 ほっそりとした頬、通った鼻筋、かなり整った顔立ちをしている。
 イリアといいイドリースといい、もはや杏珠の中では美形もインフレを起こしている。 感覚も麻痺しそうだ。
 がっくりと、その場に座り込みたくなった。
 なぜ、こうも変な外国人と係わりあうことばかりが続くのだろうか。
 天中殺か、大殺界か。ヤンキーなどと同じで、とうの昔になくなった言葉かと思っていたが、そうではないらしい。

 見知らぬ若い男は杏珠と目が合うと、唇の端だけを上げてニヤッと笑う。
 鋭くこちらを見上げる眼の色は群青だった。
「久しぶりだな。小娘」
 何を言われているのかと戸惑ったがどうせ、イリアと同じ人違いをしているのだろう。
 それにしても、自分とそう歳も変わらない相手に“小娘”呼ばわりされるとは思わなかった。
 ぶつかったのはこちらに非があるとしても、わけの判らないことに巻き込まれてはたまらない。
 敢然と、まではいかないまでも杏珠は、眉根を寄せて相手を見据えた。
「あの、違います。あたしは」
「小娘が気に入らねぇなら、迷子の仔猫ちゃんか?」
 そう言いながら男は、杏珠の手首をつかみ上げ強い力で引っ張った。
 重心を崩して倒れ込んだ杏珠の目の前に、男の胸がある。
「ちょっと何を!」
 いきなり見知らぬ相手に抱きすくめられ杏珠は、腕で押し返しながら少しでも距離を置こうとした。
 今どきの若者らしく華奢に見えたが、イリアたちほどではないにしろ案外がっしりしている。
 殴り飛ばしてやろうと思ったが、腕力で負けるかもしれない。
 だが男の力には敵わないとしても、いざとなれば殺す気で抵抗してやる。
 ここ数日で自身に振りかかった災難を思い出して杏珠は、いっそう身を硬くした。



「何をするかって、そりゃこっちのせりふだ」
 わずかにかすれた声が耳元で囁く。
 生温かい吐息のこそばゆさに杏珠は、肩をすくめたが相手の馴れ馴れしさにむっとした。
「見ろ」
 突き出されたのは男の右の手首だった。
 あり得ない方向へ、折れ曲がっている。ぶらんとした手首を杏珠は、呆然として眺めた。
 思考が止まっていたらしい。
 二人の間で無意味な沈黙が流れたあと、杏珠は喉も裂けるかと思われるほどの悲鳴を上げていた。
 腰が抜けて、どうしたらいいのか判らない。
 自分自身でも骨折など経験したことがなく、ただ驚き騒ぐより何もできなかった。
 杏珠はあたふたと動揺するばかりで、自分の意思とは関係なくダラダラと涙が出てくる。
 脳内の感情をつかさどる神経がおかしくなったのか。

「まあ、落ち着け」
 パニックを起こす杏珠とは裏腹に、手首を骨折しているらしい男の方が妙に冷静だ。
 杏珠は、泣きながら見知らぬ男の顔を見上げていた。
「なんて顔してやがる。とりあえず鼻を拭け」
 男は片方だけ眉を上げてみせる。
 それが妙に様になっていて、ハリウッドセレブの誰かがそんなことをしていたのを思い出した。
 杏珠は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を手の甲で、ごしごしと拭いた。
 ハンカチの入ったバックが見つからないのだ。見つけたとしても、今の状態では取りにいけない。

「相変わらずだな。小娘」
 男の声は面白がっている。
 骨折した腕の痛みはないのか、まるで平気な顔だ。どういうことなんだろう。芝居なのか。
 もしかしたら、本物の俳優かもしれないが、あの腕の曲がり方は袖の中でどうにかできるものではない。
「覚えてねえか。まあ、無理もねえが」
 外国人やヤンキーに知り合いなどいない。
 まったく見覚えのない男だ。
 よく見れば、舞台や映画の俳優のような華やかな顔立ちをしている。こんな印象深い風貌を見忘れるはずもない。
 言い返したかったが、鼻水と涙でうまく喋れそうもなかった。
「ヴァチカンでも会ったはずだぜ。俺は道化のなりだったが」
 道化って、ピエロのことか。
 キリスト教の総本山になんで、ピエロがいるのか。サーカス団でも来ていたのか。
 ますます、杏珠には男の正体が判らなくなってきた。
 ヴァチカンへ行ったのも、あのイタリア旅行だけだ。
 あそこで出逢ってまともに口を利いたのは、神父しかいない。現地の添乗員は日本人だった。
「俺の名はアザゼルだ」
 抱きしめた腕を緩めることもなく男は言った。
 そんな名前は初めて聞く。もっともイリアやイドリースだって、聞いたこともない。
 それなのに彼らは、杏珠を知っている。
 まるで、マジックミラーを挟んだ向こうから、覗かれているかのようだった。
 明るいこちら側からは、向こうが見えない鏡なのに、暗い側から見れば透き通って見えるガラスだ。



inserted by FC2 system