キッチンからは、いい匂いが漂ってくる。紅茶の香りと焼きたてのパン。
 鼻をくんくんとうごめかすと、早くも空腹を感じてしまう。
 ほんの数時間前に、お茶漬け食べたはずなのに。

 パンは、母の手製である。
 朝ごはん至上主義の母は、どんな時でも手を抜かない。
 絶対にサラダとフルーツは欠かせないし卵はスクランブルかオムレツ。それともエッグベネディクト。まるでホテルの朝食だ。
 イリアの許で食べたオムレツもカンペキな火の通り具合だったが、母はいつも皆が起きてくる時間を見計らって卵を焼き始めている。余熱で火が通り過ぎて硬くならないようにするためだ。
 残念ながら今日は、そんな母の朝食をあきらめなければいけない。いつも乗る電車の時間に合わないのだ。
 あわただしく洗面所を出て、玄関までの数歩の距離を滑りそうになりながら急ぐ。
 母は、にこにこしながら玄関まで追いかけてきた。
 手には昼食の弁当が入ったバック。
 昨夜は遅くまで起きて待っていてくれた上に、早朝から起きていつも通り弁当の用意までしてくれたらしい。
 多分、中身は鳥そぼろの三色弁当。杏珠が落ち込んだり、疲れて帰ってきたりする次の日の弁当はいつもそうなのだ。
 弁当を差し出されて、朝から文句を言ったことをすぐに後悔してしまう。

「朝ごはんくらい食べて行きなさいね」
 そう言われると食べていこうかという気もするが、ゆっくりはできない。
「時間がないもん」
「ダメです。朝ごはんは一日の活力の元よ」
「だって、もう時間が……」
 そう言いながら白いタイルを貼った三和土たたきで昨日と同じパンプスに足を入れる。
 後ろから追いかけてきた母を無視するのがなんとも心苦しいような気分で杏珠は、顔を上げた。
 すぐ目の前に満面の笑みを浮かべた母がいる。あのね。昨日はごめん……と言いかけて次の瞬間、息が止まった。
「……んぐっ!」
 どこから出したのか、何かを口にねじ込んだらしい。顎が外れるかと思った。
 ツナサラダの味がする。なんだ、これ?

「ベーグルよ。召し上がれ」
 語尾にハートマークでもつきそうな口調で母は言った。
 ベーグルといっても、丸いドーナツのようなそのままの形ではなく、おそらくは小さく切られた物らしいが、口の中の水分をすべて奪われる。

 杏珠は、口にベーグルを押し込まれたまま脱力した。
 こんな漫画みたいなことを本気でやっているから、ある意味、怖い人だ。
 吐き出してやろうかと思ったが、口いっぱいのベーグルはどうにもできない。
 玄関で靴を履いたまま、杏珠は目を白黒させていたが、母の方はさっさとドアを開く。
 そういえば、先日、弟も同じように朝食を抜こうとして阻止されたことがある。
 確かあの時、母が弟の口にねじ込んだのはおにぎりだった。具は牛肉のしぐれ煮。朝から重い。



 その場で食べてしまうには時間もなく、かといって吐き出してしまうこともできずに杏珠は、玄関から駅に向かって全力疾走した。
 ご近所の人に出会わないことを祈りながら、ローヒールの踵をカッカッと鳴らしてアスファルトの道をひたすら走る。
 母に対して申し訳ない気分などいっぺんに吹き飛んだ。
 あの人はいつもこうなのだ。
 悪気はないのだが、やっていることはいつもゴーイングマイウエイ。

 食パン咥えたまま走って登校中に曲がり角でハンサムだけど嫌味な男とぶつかり、口論をして、学校に着いたらそいつが転校生。もしくは新任の先生だった……というオチがついたら、往年の少女漫画だ。
 パンを咥えて走るのがお茶目な女子校生あたりなら、まだいいが、スーツ姿で寝不足に目を赤くしたOLではどうにも様にならなかった。
 おまけにパンはトーストではなく、重いツナサンドのベーグルだ。カットしたものでも、もっちりしたベーグルは飲み込むこともできない。
 そうかといって道端に吐き出して捨てるのも気が咎める。
 とりあえず、さっさと口の中に押し込んでしまえば、外からは見えないはずだ。
 もぐもぐと口を動かしているもの恥ずかしいのだが、パンを咥えたままという情けない姿も人目に晒したくはない。
 前方からの通行人とすれ違いそうになり、あわてて口元を隠し、郵便ポストのある脇道へ逃げ込んだ。
 今では珍しい丸型の赤いポストの裏へ回ろうとして一歩、足を踏み込む。細い道だから人通りは少ない。いつもの通いなれた道だった。
 だが、足の下に地面がなかった。
 ほんの数段ほどの階段になっていたらしい。足を踏み外し悲鳴を上げた拍子に、口からベーグルは飛び出す。

 体が一瞬、宙に浮いたような気がしたが、ひどい衝撃で我に返った。
 いきなり目に入ったのは、真っ青な空と電信柱を繋ぐ電線の黒い筋。
 しばらくして、通行人らしき顔がいくつか集まってきた。
「大丈夫ですか」
 誰かが親切にも声をかけてくれたのだが杏珠は、立ち上がることができなかった。
「だ、……だいじょ、うぶです」
 反射的に答えたものの身動きがとれない。
 立ち止まる人、遠巻きに見ているだけの人など……数人の見知らぬ人々がいる。
「いや、アナタより……下の」
 別の誰かの声。
 何を言われたのか、よく判らないものの、転んだ恥ずかしさが先にたつ。
 痛みはなかった。
 もしかしたら怪我でもして動けないのかと思ったが、それよりも現状はひどい。
 両足を広げたせいでタイトスカートのスリットが裂けている。動けないのは足を開ききっているせいだ。
 思いっきりスカートがめくりあがり、これ以上はないというほど、みっともない姿を公衆の面前にさらして杏珠はその場で死にたくなった。
 あわてて足を閉じて前かがみになりながら、立ちあがろうとした矢先、下から低い声がする。
「どけ」



inserted by FC2 system