展覧会初日はまずますの人の入りだった。
 終了後には顧客を料亭に招く。
 外国人客がいるので、比較的、閑静な日本庭園のある店を選んで予約していたのは杏珠だが、まさかその人数に自分まで入っているとは思わなかった。
 我ながら要領の悪い性質だと思う。
 普通、夜の接待などに借り出されるのは男性の営業社員のはずだ。
 それがなんで、内勤の女子社員まで……。
 多分、一人でもホステスの頭数を減らして経費を浮かせようとか、そんな社長のセコイ考えによるものではないだろうか。

 気ばかり張る場所で何を食べたかなど、まったく覚えていない。
 食事の後は高級クラブへとなだれ込むのが定石だ。一部の客をタクシーでホテルまで送り、主に男性客のみを連れて行く。
 幸いイドリースは常に社長がそばについており、杏珠がそばに行かなくてはならないという事態は避けられた。
 それでもときおり、酔いにほんのりと赤らめた眼を杏珠に当てる。
 席は離れていたが、まるで銃口を突きつけられたようで杏珠は、震え上がった。
 恥ずかしさよりも、気味が悪い。

 着飾った女たちはイドリースの側へはべりたがる。
 名の通った高級クラブのホステスだというのに、なぜか彼の前では誰もが無垢な少女のように恥じらい、うっとりと夢見るような眼差しを向けた。まるでマタタビを与えられた猫だ。
 杏珠がこのクラブに来たのは、これが初めてではない。
 接待のためによく使うので、会社にも営業電話をかけてくる顔なじみのホステスもいる。
 こういった高級クラブのホステスは頭の回転もよく、話題も豊富で客たちを退屈させることがない。まして自分の好みの男がいたからといって、そう極端な態度をとるはずがないのだ。それが、どうも様子がおかしい。
 大きく開いたドレスの胸元を押さえたり、素人娘のようにハンカチをひろげて短いスカートからむき出しになった大腿を隠したりしている。
 水商売の女にありがちな婀娜めいた様子が、まったくない。

 社長は不機嫌になり、営業の鞠尾の提案で今度は、ゲイバーに連れて行ったが、ホステスが“女”から“女装した男”に代わっても事態は同じだった。
 さらに都合の悪いことに、いつもなら行われるドラァグクイーンのショーができないというのだ。
 こんなことは、店側としても初めてのことで、オーナーたちさえどうしていいのか、戸惑っているらしい。
 鞠尾がこっそり教えてくれた話によると、原因はイドリースにあるらしい。
 皆が彼の前で、道化のようにおどけたり、肌を露にした奇抜な衣装で踊ったりするのをどうしても嫌だと言うのだ。
 最近は、女装家の芸能人も多く認知度も高い。ただテレビで見るよりもドラァグクイーンのショーは、かなり過激だ。
 このクラブでは、性器の露出さえする。
 だが、ドラァグクイーンは、プロのパフォーマーだ。
 彼女たちの自己主張でもある。どう考えても、おかしな話だった。
 雑な括り方をすれば、歌舞伎の女形のようなものだ。
 それが、たった一人の男のせいで、ここまで仕事を投げ出すものだろうか。まさか、あの男……札束か、あるいは非合法な薬物で人間をいいように扱っているんじゃないだろうか。
「そうね。でも、変なのよ……まるで初心な小娘になったみたいな気分になるの」
 鞠尾は、そう言って身をくねらせた。
 彼もいつものこれ見よがしの大げさな態度や、大声もすっかり身を潜めている。

 ついついおろそかにされがちな他の客たちに、杏珠は必死で気を配り、話し相手になるより仕方がない。
 地味な内勤の社員に、こんなことまでやらせる社長を恨んだが、今はイドリースの席から離れていることだけがせめてもの救いだった。
 必死でホステス役を務め、客をタクシーに乗せて見送る。
 珍しく上司にねぎらいの言葉をかけられたころには、すでに終電も出た時刻だった。










 長いタクシー乗り場の列に並び、ふらふらになってようやく自宅に帰ったのは夜中のニ時である。
 深夜だったにもかかわらず母が用意してくれたお茶漬けを食べた。接待で食べたものなどどこへ入ったか判らない。
 シャワーだけを浴びて、早々にベッドに潜り込んだものの、つい寝過ごしてしまった。
 携帯のアラームは、すでに何度も鳴っていたらしい。

「なんで起こしてくれなかったのよっ!!」
 泣きべそになりそうになりながら、杏珠は母に八つ当たりを言った。
 会社ではなく、直接、展覧会場へ行かなくてはならないので早めに自宅を出る予定だったのだ。
 いつもなら前の夜に着ていく物を用意しているのだが、夕べはそんな余裕などなく、とりあえず適当なスーツをクローゼットから引っ張り出す。
 ストッキングも適当に選んで、階段から転げ落ちそうな勢いで、洗面所に走る。
 先に洗面所で髭を剃っていた父を押しのけて、所要時間わずか三分の簡単な化粧をすます。
「何をあせってるんだ。いつもより早いじゃないか」
 杏珠のために場所を譲りながら、父はのんびりと言った。
 父はどんな時でも、あせったり慌てたことがない。
 笑うと目尻に皺が寄って、もともと丸顔の優しい顔がいっそう柔らかい表情になる。
 杏珠の丸い顔立ちはこの父に似たものだと、親類の年寄りたちからよく言われたものだ。
 そういえば、この人のよさそうな外見のせいか、恋の仲立ちなどを頼まれごとがされることが多かった。
 同性から見ても、ほとんど危険視するほどの美人ではないからだろうと杏珠は、自己分析している。
 そんなわけで年寄りにはモテた。おかげで昨夜のホステス役もうまく立ち回れたわけだ。



「今日は特別なのっ!」
 歯ブラシを口に突っ込みながら、杏珠はそう答えた。
 洗面所の大きな鏡の中で、隣に立つ父がいる。
 シェーバを当てながら、鏡を覗き込んでいた。
 髪はたっぷりとあるが白い物が混じって、寝癖であちらこちら飛び跳ねている。
 最近は少々、太ってきたのだが上背があるため見苦しいほどではない。
 それでも、メタボリック症候群が不安な中高年である。
 杏珠は父を斜めに見ながら、ふとイリアのことを思い出した。
 大丈夫だ。“お父さん”は、ここにいる。
 小さい頃からよく知っている。他の誰でもない。たった一人のお父さんだ。“父様”などという気取った存在ではない。
 ホンモノの父は、こうしていつも杏珠の側にいる。

「大丈夫か、夕べは遅かったんだってな」
「うん。平気、大丈夫よ」
 シャカシャカと音を立てて、歯を磨きながら答えた。
 父は、杏珠が帰った時間もまだ残業をしていたはずだ。
 どうやら、娘が午前様で帰宅したことを母は黙っていてくれたらしい。
 いくら、のんびり屋の父でも娘の帰宅が深夜にまでなると聞けば、そんな仕事はよくないと言い出すに違いなかった。
 妹の妊娠騒ぎは父親にとって、かなりの衝撃だったはずだ。
 特に今の仕事に魅力があるわけでもなかったが、それでも杏珠は続けたいとは思っている。
 できれば親に反対はされたくないし、心配をさせるのも嫌だった。



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