身体を起こして辺りの様子を伺うが、人の気配はない。
 簡単に毛布をたたみベッドを降りる。靴を履いて手櫛で髪を手櫛で直すと杏珠は、足早に展覧会の受付に戻ることにした。
 今ごろ、理莉が一人で受付に残されて慌てているだろう。
 会場に戻ってくるとすでに作品の搬入は終わって、審査員の作家たちが数人来ていた。すでに業者は帰った後のようだ。

「おや、おや。らいりょうぶかえ」
 杏珠の姿を見つけた陶芸家が声をかけてくる。
 おそらく“大丈夫か”と言っているのだろう。
 かなりの高齢で義歯が合っていないためか、口が回らないらしい。
 自分の曽祖父くらいの審査員長に精一杯のお愛想笑いをして杏珠は、軽く会釈をした。
「もう、平気なのか。倒れたんだろう?」
 すぐさま別の方向からいかめしい咳払いとともに、声がかかる。
 白い口髭をたくわえた禿頭の日本画家だ。当社のお得意さまでもあった。
 こちらもけっこうなお歳のはずだが審査員長とは違い、舌の動きも滑らかで発音をはっきりしている。
 長身で姿勢が良く、身の回りの物にもこだわりがあるらしい。ダンディと言えなくもないが、実のところただのエロ親父だ。
 さりげなく肩に手を回してこられると、男性用の香水に混じった体臭が鼻につく。
 アラミスの香りも上回るほどの加齢臭。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。もう大丈夫です。ありがとうございます」
 無礼にならないように、そっと肩を引いて頭を下げた。
 にっこりと笑ってみせる。我ながら巧みな顔面操作だ。

 急いで受付に戻ろうとするが、またしても甲高い声に呼び止められる。
 黒ずくめのスーツに、女優のようなつばの広い帽子をつけた女流書道家だった。
「ここ空調が悪いんじゃないのかしら。前にも女の子が貧血で倒れたことがあったじゃない」
 すっきりとした長身にパンツスーツ。白髪を紫に染めている老嬢は、書の審査員でこの美術展の顧問だ。声が高く大きいので、すぐに周囲の注目を浴びる。
 もしかしたら、わざとやっているのだろうか。芸術家は目立ちたがり屋が多い。
 国内の公募展くらいでは、集客もそれほどではないのだが、これが有名な海外の美術展なら立ち止まることもできないほどの混雑になる。館内の空調が悪いのか、貧血で倒れる来館者もいるらしい。

「なんやて、ほな、飴をやろう。おいで」
 画廊と契約している洋画家が、飴の袋を出して手招きをする。
 関西では年配の女性がバックに飴を入れて持ち歩くというが、禁煙中の男性にも同じことがいえるらしい。
 この中では美術展の審査員の中ではいちばんの若手ではないだろうか。若いといっても六十近い。
 困ったな。急いでるんだけど……。
 彼らに引っかかると、かなり時間をとられる。
 無碍に断ることもできずに杏珠がためらっていると、いきなり背後から肩を掴まれた。


 ──え?
 ものすごい握力だ。
 普通なら、こんなときは、軽く肩に触れるとかポンとたたくとかするはずなのに、指を食い込ませんばかりの力で、握りこんでくる。
 後ろを振り返るのが怖い。
 体中の毛穴から冷や汗が噴出すのを感じる。完全に身体が硬直した。
 さっきのアラミスとはまったく違う微かな匂いが仄かに漂う。
 これは香水ではない。
 香水にこだわりがあるわけでも、詳しいわけでもないがアラミスは父の日に贈ったことがあるのでたまたま知っていた。
 デパートでさまざまな匂いを嗅いだが、香水にはアルコールを飛ばしても、なお鼻腔を刺す匂いがあるような気がする。
 この香りは、もっと穏やかだった。自然な感じがした。
 イリアのものに似ている。

「サヴァ?」
 耳に息を吹き込まれるようにして低いよく通る声が囁く。ぞくっと産毛が逆立つような感覚が湧き上がった。
「さ、さば? 鯖がナニ?」
 意味不明の言葉に杏珠は困惑する。
 振り向かなくても、これが誰かぐらいすぐに判った。
 できれば、知らん顔をしてやりすごしたかった。早く受付に戻りたい。
 だが、肩に置かれた手の感触はたやすく解放してくれそうもなかった。
 まるで出来の悪いロボットのように、ぎこちない動きで首を後ろに回す。同時にひきつりそうになりながらも笑顔を作るのも忘れない。これも仕事のうちだ。
 ほっそりとした長身にまつわる長い白金髪。白皙の美貌。
 見ているだけなら眼福。ただし、かかわり合いになると迷惑以外のなんでもない存在――イドリース。



「エスク テュ ア マル」
 先ほどまで、あんなに流暢な日本語を話していたくせに、今はフランス語を通すつもりらしい。
 短い単語を一つ一つ区切るように発音している。
 こちらが判りやすいように言ってくれるらしい。残念ながら、さっぱり判らなかった。
 日本語でお願いします……と言えるものなら言いたい。
 入れ歯の日本画家の言葉の方が、まだ判りやすかった。
 仕事用の笑顔を忘れ、思いっきり眉根を寄せて相手を睨んでいると、社長や鞠尾が駆け寄ってくる。
 鞠尾がその巨体を縮めるようにして、杏珠にこっそりとフランス語の意味を教えてくれた。
 大丈夫か。どこか痛みはないのか、と心配しているそうだ。
 お礼ぐらい言うべきかと迷ったが、割り込んできた社長が向こうへ行けと、後ろ手で合図をしている。
 鞠尾は首をかしげて、欧米人がよくやるように両手を上げてみせた。
 軽く会釈だけをして、その場を逃げ出す。面倒ごとに巻き込まれるのは、もうたくさんだ。
 今夜の営業社員は、接待で忙しくなるはずだった。
 そんな仕事までさせられることだけは、絶対に避けたい。



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