悪霊……?
 あいにく悪霊は、七つもいない。赤い眼をしたあの神父一人だ。
 っていうか、また“わが子”か。その上“哀れな子”か。
 杏珠は、その場で頭を抱えた。
 新手の新興宗教のお誘いなのか。
 そのまま枕の上に突っ伏してしまうと、そっと毛布をかけられる。
「もう寝なさい。われがついてやろう」
 穏やかにイドリースが言う。
 優しいが、どこか冷え冷えとした声音だった。
 いや、けっこうです。
 喉もと近くまで出かかった言葉を必死で呑み込みながら杏珠は、身を硬くして毛布にくるまる。
 これ以上、何かするつもりなら、大声を出して人を呼ぼう。
 唇を噛み締める杏珠の髪に、大きな手が触れる。
 どこかぎこちないしぐさだ。誰かがしていたことをなぞるような……彼がやりなれないことをしているのが、なんとなく判る。
 似てはいるが、こんなところはイリアとはまったく違う。
 イリアなら、当たり前のように触れるはずだ。
 彼はいつも、杏珠の身体のどこかに触れていた。まるで触れたその場所から愛執を注ぎ込むように。
 冷たく固いあの手で……。



 杏珠は、身じろぎもしないで相手の様子を伺っていた。
 早朝の美術館には、まだ来館者もない。搬入作業のための業者が来るまでまだ少し時間がかかる。
 おそらく館内にいるのは、杏珠たち画廊の社員と事務所にいる職員だけなのだろう。
 イドリースは出て行く気配もない。
 息を詰めて固まっていた杏珠だったが、緊張感に耐え切れなくなった。

「……悪霊って、どういう意味ですか?」
 毛布にくるまったまま、相手の顔さえ見ないで尋ねた。
 ついでに、イリアのことも訊いてみたいような気もするが、どこでどうやってイリアと知り合ったのかと問い詰められても困る。
 まさか正直に、酒の勢いでいたしました……とも言えない。
「それに、哀れなって」
 言いかけて杏珠は口をつぐんだ。
 もしかしたら、ただ単に間違った日本語を覚えているだけなのかもしれない。
 女の子という意味ぐらいなのだろうか。外国人から見たら、日本人は童顔だというし。

「“悪霊”を知らぬか。それは汝の内側にあるもの。汝の不安がそれらを呼ぶ」
 ベッドの中からでは、イドリースの表情は判らない。ただ声は淡々としている。
「いや、別に日常生活で不安なんて感じてないですし」
「汝の心が汝自身を造っている。汝の前に起こりうるすべては、汝の内側から発生したものだ」
「………………そ、そうですか……」
 まともに答えているのも、あほらしくなってきた。
 やっぱり、危ない外国人だ。
 新興宗教にかぶれているのかもしれない。
 できるだけ逆らわずに、なんとかやり過ごそう。相手の機嫌をそこなって、逆上されては危険だ。

「では、もう眠りなさい」
 流暢な日本語だ。アクセントにも違和感がない。妙に古風な言い回しだけが変わっている。どこで習ったら、こんな単語が出てくるのか。
 眠れと言われても、こんな危なっかしい男の前で無防備なことはできない。
 凶器なんて持ってないよね……。
 杏珠は、奥歯を噛み締めた。
 おとなしく寝るフリをしよう。そう思った。
 だが、頭は覚醒しているのに全身の力が抜けて、指先一本動かすことも億劫になる。
 自分の意思に反して、閉じようとする瞼を開くことさえできない。
 ここで眠ってたまるかと、気合いを入れれば入れるほどに瞼が重い。
「今は眠るがよい。この世の理ことわりから外れた子よ」
 穏やかな声が耳許で響く。
 杏珠は、目を閉じたまま、緊張していた。
 男が早く出て行ってくれたら……頭の中ではそればかり考えている。
 耳をそばだてていると、遠くからいくつかの靴音がする。ドアの開く音とともに、社長のフランス語らしき言葉が聞こえた。
 このまま、社長が連れ出してくれれば、安心して眠ることができるのに。
 しばらく杏珠は、社長とイドリースの声を聞いていた。会話の内容は判らないが、だんだんとその声が遠くなっていくようだ。










 いつの間に眠ってしまっていたのか。
 眠ったというより、いきなり意識が途切れたような気がする。
 手足は動く。あたりに人の気配はない。
 杏珠は奇妙な、なんとも腑に落ちない気分で眼が覚めた。
 本当にただ眠ってしまっただけなのか。
 ふいに不安になって、着衣を調べる。
 どうやら、本当に何もされていないようだ。
 睡眠不足に時差ぼけが重なっていたのかもしれないが、あまりに警戒心のない自分が情けなくなる。

 そもそも、初めての海外旅行先で行きずりの男とどうにかなるなど、これまでの杏珠の人生では考えられなかった。
 派手な男性遍歴もなく、ドラマティックな恋愛の経験もない。
 初めての相手となんとなく結婚するんだろうな……などと、漠然と考えていた。
 それが当たり前のことだと真面目にいい子でいることが、正しいことだと信じていた。
 人と争ったり、われ先に飛びついたりするのが恥ずかしくって、まるで電車の席を譲るみたいに常にどこかで引いている。
 それが二股をかけられた挙句に、あっさり振られた。
 ショックは大きかった。
 二股されていた相手が、実の妹という現実は受け入れがたい。悪夢のようだ。
 ただ、それが彼を失うことが辛いのか。
 それとも傷ついたのは自尊心だけだったのか、今でも判らない。
 彼が好きなのか?
 それとも、とりあえず人並みに“恋人のいる自分”でいたいのか?
 今さらながら、自分の浅はかさに泣けるのを通り越して笑える。

 ──あたしには恋する才能がないのかもしれない。

 認めたくない。
 たとえば仕事の出来ない女子社員なら、けっこういるのではないか……たぶん。
 杏珠自身も、そうだ。与えられた簡単なデスクワークだけを繰り返す日々。
 頼りにしているよとか、よくやっているなんて、たまには言われることもあるが、受付の仕事は、代わりなどいくらでもいる。
 だが、恋愛のできない女なんて、この世にいるだろうか。
 杏珠は医務室の簡易ベッドの上で、頭を抱えた。



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