「日本語、話せるんですか……?」
 驚くよりも、呆れてしまった。
 開いた口がふさがらないとはよく言うが、開いた口がさらに広がるような気分だ。
 改めて間近で聞く彼の声音は、イタリアの男よりもよく通る。
 穏やかで、しっとりと落ち着いたテノールだ。
 オペラならテノールはたいてい主役か色男。バリトンは仇役が多い。
 イリアの低い声が悪役の魔王なら、彼は王子だ。
なれの上役の前では日本語が話せないことになっておるから、合わせておきなさい」
 初対面の人間に対して男は、いきなり命令口調だった。
 ドッペルゲンガーか、双子の兄弟なのか。
 まるで鏡に映したみたいに、そっくりなのに、まるで雰囲気が違う。
 この男の美貌がどこまでも清く透徹しているのに、イタリアの男はどこか妖しげというか……はっきり言って、いかがわしい感じがした。
「はあ……でも、その」
「なんだ」
「フ、フランス……の方ですか」
 訊きたいことは山のようにあったのだが、結局、どうでもいいことを言ってしまった。
 イタリアの方ですか……とは言えない。神父のことを口に出すのが怖かった。

「いや」
 彼がゆるく首を振ると、白金の髪が揺れた。
 わずかな身のこなしの中に、息を呑むほどの優雅さがある。
「われのことはイドリースでよい」
 イドリースという名前こそはアラブ系だ。白金髪プラチナブロンドに白い肌をしたギリシャ彫刻の英雄像のような彼の姿とは、かけ離れていた。
 おまけに“ワレ”ときたか。
 だから二人称が“ナレ”なのか。妙に時代がかかった口ぶりだが、現代日本ではあきらかに浮いている。まるで流行りのロールプレイングゲームだ。
 それともヨーロッパでは、日本のアニメが流行しているからその辺りの影響なのか。
 もしそうなら、かなり“痛い人”だ。

「わ、判りました。あ、あの……ですね。ご親切は、その、ありがたいんですけど」
 ただの時差ボケです、とは言いにくい。
 近々と見据えられて杏珠は、自分の声が小さくなっていくのを感じる。
 暗いイタリアの男の双眸とは違って、イドリースの眼にはほとんど色がなかった。
 その眼で見据えられると、何もかもを見通されているような錯覚を起こす。
 理莉に指摘された昨夜の痕跡が、見つかってしまうのではないかと気が気ではない。
「……あの、あたし、もう平気ですから……マク……マクドゥ……さんはどうぞ、お戻りくださって」
 ちゃんと覚えるように言われていたのに、どうしても思い出せない。マクドナルドとか、もっと判りやすい名前ならよかったのに。
「無理をすることはない。それにわれのことは、名を呼ぶように言ったはずだが」
 名前って、ファーストネームで呼べということか。外国では当たり前かもしれないが、いきなり馴れ馴れしいような気もする。
 なぜか、彼の方も最初から杏珠に対して親しげな態度で接してきた。
 フェミニストなのかもしれないが、それにしても仕事関係で付き合いのある相手の名前を呼ぶのは抵抗がある。
 社長が聞いたら、なんと言うだろうか。



 口ごもっているうちに、医務室のドアの前にイドリースは来ていた。
 ドアをノックもしないで杏珠を抱きかかえたまま、器用に片手を伸ばしてドアノブを回す。
 それほど大きくもない室内には人影がない。
 机とカーテンのついた病室用のベッドが、二つならんでいた。
 イドリースは杏珠をベッドに寝かせ、靴まで脱がせようとする。
 杏珠は、あわててそれを手で制した。引きつる笑顔で断るが、イドリースはまるで聞く様子もない。
 半ば意地になって抵抗する杏珠を押さえ込み、両足からスニーカーを脱がせて毛布をかける。
「おとなしく寝ていなさい。汝には休息が必要だろう」
 毛布で顔を隠しながら杏珠は、こっそりと相手の様子を伺う。
 イドリースは、ベッドの片隅に腰を降ろして出て行く様子はなかった。
「このまま眠りなさい。仕事のことはわれから、うまく言っておいてやろう」
 そう言われても、このまま居座るつもりだったら困る。
 なぜ、この男が自分に構うのか。訳が判らない。
 ヴァチカンの神父と関係があるのだろうか。
 こちらから訊くのはためらわれる。
 少し迷ったが、意を決して杏珠は起き上がった。

「あたしのことなら、もう大丈夫ですから、どうぞお引き取り下さい。商談の途中じゃなかったんですか」
 本当に親切心からなら申し訳ないが軽い女だと思われているなら、はっきり言った方がいいだろう。
 社長が商談に使っているクラブのホステスたちと、いっしょにされてはたまらない。
 毅然とした態度で接しなくてはいけない。
 そう思って杏珠は、まっすぐにイドリースを睨みつけていた。
 怒り出すのではないかと思ったが、彼はわずかに微笑んだ。
 やっぱり似ていると思う反面、まるで違うような気もした。
 あの男はこんなふうに笑わない。唇の端を吊り上げて皮肉げに笑う。暗くどこか妖艶な印象を与えるのに対し、イドリースは冷ややかな輝きを帯びる白珠のような気品と爽やかさがあった。
 ほとんど色のない眸には、冷たく鮮烈な光がある。
 それとも首の後ろで、緩く結んだ白っぽい金髪のせいだろうか。
 彼の長髪は社会人としては、いかにもアンバランスだった。
 仕立てはよいが、地味なダークグレイのスーツとネクタイ。
 あの男よりも肌が白い。
 白人にしては、そばかすや染みなどがいっさいなく、まるで陶磁器のように白く滑らかな肌をしている。
 女が見ても羨ましくなるほどだ。
「瑣末ごとだ。汝が気にすることではない」
「い、いや……そうじゃないでしょ。イ、イドリースさんだって」
「イドリースだ。二度は言わぬ」
 ためらいもなくイドリースは、杏珠の言葉を遮った。静かで穏やかな声音だが、決して否とは言わせぬ強さがあった。
 これは命令だ。
 他人を意のままに動かすことを当たり前にしている人間特有の傲慢さが伺える。
 威圧的な相手の態度に、杏珠は少しむっとして眉を寄せた。どこの国の出身か知らないがここは日本だ。身分など関係ない。
 同じ顔をしたあの男も、古風だが居丈高な物言いをしていたのを思い出す。



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