──そんな馬鹿な!?

 杏珠は、わが眼を疑った。
 視力はそれほど、悪いわけではないはずだ。
 見間違いであって欲しいと心の底から願った。
 しかし、あの姿を見間違えるはずもない。
 辺りを払うような超然とした美貌。
 長い金髪を襟足でひとつにまとめて、ゆるく結んでいる。ノーフレームの眼鏡をかけているが、切れ上がったきつい目許がレンズ越しに見えた。
 スーツに包まれた広い肩幅。よくあの体格に合うスーツがあったものだ。
 杏珠は、あせって、どこか隠れる場所はないか。必死で探した。
 トイレに逃げ込もうか。
 いや、もうヤツはすぐそこまで来ている。
 心臓が咽喉もとまで、せり上がってきそうだ。
 このまま知らん顔して、やり過ごそう。なまじ動くよりは目立たないはずだ。
 もうそれしかない。杏珠は覚悟を決めた。
 できるだけ頭を深く下げて、挨拶をするのだ。顔は上げないようにして。
 緊張しすぎて、くらくらする。自動ドアの開く音と外気が入り込み、息を深く吸い込んだ。
 靴音が閑散としたロビーに響く。


「おはようございます」
 杏珠は、立ち上がっていっそう深く頭を下げた。
 社長が鷹揚に「おはよう」と挨拶を返す。
 革靴の床を踏む音がすぐ近くまできた。
 どうか、このまま気がつかないで行ってくれ……!
 神に祈るような気持ちで腰を曲げたまま動けない。杏珠の服の裾を、理莉が引いている。
 長々と頭を下げっぱなしにしているのを不審に思ったのか。
 しかし、理莉がしきりに服を引っ張っている理由は、そんなことではないと気がつく。
 足音がまっすぐ、こちらに向かってくるのだ。
 冷たい汗が背中を伝う。
 一般の出品者や来館者ならともかく、社長の連れてくる客たちは受付など素通りして、まっすぐに展示会場へ行くはずだった。
 まずい。気付かれたのか。
 おそらく敵は、最初からこちらの様子を見ていたに違いない。
 毬尾と三人で雑談しているときからだろう。ガラス張りのドアの外側からは、こちらが丸見えだ。
 に、逃げよう……。
 杏珠は顔を上げないまま、一歩足を引いた。
 がたんと、椅子が床に倒れる派手な物音が響いた。
 背後の椅子に足をひっかけて、よろめく。
 予備として、畳んだまま壁に立てかけてあったパイプ椅子までが将棋倒しみたいに倒れる。
 ――しまった。
 足もとがふらつき、仰向けのまま後ろに倒れこみそうになる。
 焦ってどこかにつかまろうと、夢中で手を伸ばした。
 不意に強い力が二の腕をつかむ。
 そのまま引っ張りあげられて、体が宙に浮いた。
 覚えのある感覚だった。足の下に地面がない。
 そうだ。
 あの男に抱き上げられたときの……。でも、匂いだけが違う。金属的なキンとした冷たい香り。



 一瞬、目を閉じてしまっていたらしい。
 温かな、でも硬い感触。シャープで深みのある匂いがする。
 こわごわ辺りを伺うと、数人に駆け寄る足音と理莉の声。
 社長が声高に何か言っている。
 言葉のアクセントからしてフランス語らしいが、何を言っているのかまでは判らない。
 しばらくして、社長の流暢なフランス語が日本語に変わった。
「何をしている。マクトゥームさんに失礼だろう」
 社長がしかめっ面で杏珠に訴えている。
 なんのことかと思えば杏珠は、イリアそっくりの男に抱きとめられていた。

 ──マクトゥ……って“マグダラのマリア”の作者じゃ!

 おそらくは、彼が大事な取引先らしい。
「す、すすす、すいませんっ!」
 あわてて離れようとしたが男は、いっそう杏珠を深く抱きしめた。
 均整のとれた逞しい体がワイシャツ越しに感じられる。何事か言ったがフランス語らしい。濁音の少ない優雅な言語だ。
 社長がそれに答える。フランス語ができるのは社長と、営業の毬尾だけなのだ。
「だ、大丈夫です。なんともないですから」
 大声で叫んでもまるで聞く気がないらしい。
 もっぱら男は、社長と話をしている。

 何かおかしい。奇妙な違和感があった。
 あの男なら日本人なみに話せるはずだし、何より声が違う。彼の声はもっと低い。それに色っぽいっていうのか、深い独特の艶のある響きだった。
 もしかしたら、まったくの別人だったのか。
 どちらにしても放してもらわなくては。
 杏珠は、大丈夫だと日本語のままで何度も訴えた。
 騒ぎを聞きつけて奥から現れた毬尾が通訳をしてくれたが、どうしても彼は聞き入れない。そのまま医務室へと連れて行かれることになった。
 なおも杏珠が断ろうとすると、今度は手のひらを返したように社長が言う。
「マクトゥームさんが、医務室へ連れて行ってくださるとおっしゃってるんだ。ご好意を無駄にしてはいかん」

 なんでこうなるんだ……。
 本気で杏珠は、泣きたい気分だった。
 毬尾や理莉が付き添うというのも断って、この外国人は杏珠を抱き上げると、大股で歩き出した。
 いくら西洋人に比べれば東洋人が小柄だといっても、人間一人抱えても彼は普通に歩いている。
 杏珠は、そうっと下から男の様子を伺ってみることにした。



 やっぱり、似ている。双子と言っていいほどそっくりだ。
 抱き上げられた感触も同じ。
 ほっそりとした顎の線。形のよい鼻梁。薄い唇。
 ただ、眸の色、髪の色、肌の色がまったく違う。
 真っ赤な血のような眼の色に、濃い蜜のようなゴールデンブロンドのイタリア男の髪に対してこの男は、きわめて明度の高いプラチナブロンドだった。眸にはほとんど色がない。周囲の色に染まる不思議な灰色の双眸をしている。
 肌の色も、彼よりずっと白い。抜けるような白い肌は女性的でもあった。
 匂いも違うし、声もそうだ。
 甘さのない冷たい清涼感のある匂い。彼とは、まったく別のものだ。
 それにしてもこの人、医務室がどこにあるのか知っているのかしら。
 美術館の医務室など、杏珠も行ったことがない。そんな場所があることさえ、先ほど知ったばかりだ。
 だが心配するまでもなく、彼はまっすぐに従業員通路を歩き突き当りを折れ、まるで目的地を知っているような足取りで進んでいた。
 とりあえずお礼を言うべきだろう。杏珠は口ごもりながら言った。
「あの……ありがとうございま……えっと、サンキュウ……じゃなくて、メルシーボクゥだっけ?」
「日本語でよい」
 はっきりとした日本語が返ってきた。



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