「おはよん!」
 営業社員の鞠尾が腰を左右に大きく振りながら、80号ぐらいの人物画を抱えて入ってきた。
 80号と言えば、長い面で145.5センチほどだが、額に入れるとさらに大きくなる。
 それを鞠尾は、軽々と受付まで運んできた。
 年齢は四十半ばほど。剃っているのか、もとからそういう体質なのか禿頭である。
 その分、濃い眉と髭が特徴的だ。眼光は鋭く顔立ちはいかつい。
 肩幅も広くがっしりとして背も高いので、悪役プロレスラーのようにも見える。
 彼がセクシーなモンローウォークで歩いていると、かなり周囲から好奇の目で見られるのだが本人は、さして気にしている様子はない。
 杏珠も入社した当時には驚いたが、今ではかなり耐性もできた。

「おはようございます。鞠尾さん。その絵、どうしたんですか?」
 杏珠が応えると、理莉も丁寧に頭を下げた。
 名門の私立女子校に通う理莉は、言葉遣いだけではなく礼儀作法もきちんとしている。
 しかし、お嬢様口調のお嬢様というのは、アニメではよくいるが現実に見たのは理莉が初めてだ。
「フランスの高名な先生が出品して下さったのよ。海外から届いたものだから、搬入がぎりぎりになっちゃったの」
 鞠尾は人物画を受付の横に置くと、杏珠たちを振り返った。
 彼の話し方も少し変わっている。オネエ系とでもいうのか。
 大きな身体にそぐわず気配りが細やかで、杏珠たちにも気安い。
「へえ、誰ですか?」
 受付のテーブルを回り込んで、杏珠は正面から人物画を覗きに行った。
 理莉も杏珠の後ろからついて来る。
「えっと……イドリース・ビン=イエレド・アール=マクトゥーム」
「それって早口言葉?」
 杏珠が言うと、後ろで理莉が一度も噛まずに言えた鞠尾に拍手している。
「フランスというよりアラブ系ね。でも大切なお客様だからきちんと覚えておきなさいね」
 鞠尾は、重そうな額を支えながら、女っぽく小指を立てて首をかしげた。
 画面いっぱいに若い女の姿があった。裸婦である。
 長い亜麻色の髪を身体に巻きつけて、大理石の露台に立っているところだ。
 タイトルは“Sainte Marie Madeleine”
 フランス語らしい。



「これ、なんて書いてあるんですか?」
 杏珠は、額縁の裏に貼った作品名を記した札を指差して鞠尾に尋ねた。
「マグダラのマリアよ。キリストの足を香油で洗って、それを自分の髪で拭いたっていう人ね」
「このマリアって、杏珠ちゃんに似てません?」
 自分の身長ほどもある縦長の絵を見ながら、理莉が言った。
 鞠尾も絵を自分から少し離して、しみじみと鑑賞している。
 裸婦は、恥じらいのヴィーナスウェヌス・プディカと呼ばれる古典美術の類型に基づく構図になっており、卵型の少女っぽい顔立ちをしている。
「あら、そういえば、このくるっとした大きな眼とか、口許とか……似てるかもしれないわね」
「似てない!!!」
 杏珠は、恥ずかしくなって叫んだ。
 絵の中のマリアは、なかなかの美女だ。スタイルもいい。これを似ているなどと言えば製作者が気を悪くするかもしれない。何よりも裸の絵に似ていると言われると、まるで自分が脱がされたみたいな気がする。
「どうしたの。杏珠ちゃん? 可愛いじゃないのよ。このマリア」
 屈託なく鞠尾は、言うが理莉の方はそうでもない。
 うっすらと頬を染めて、杏珠を見上げている。
「お顔もそうですけど……お胸のラインからお腰にかけてとか、それから……この奇麗なピンクのちく」
「何を言おうとしてるのよ!」
 思わず、杏珠は自分の胸を守るように両手で隠した。
 服の上から視姦されているような気がして血の気が引く。
 鞠尾がやれやれとばかりに、大きな肩をすくめた。

「ねえ、アタシ、今朝すごいキレイな人、見ちゃったの」
 青くなったり、紅くなったりする杏珠の姿に同情してくれたのか。鞠尾がさりげなく話題を変えてくれた。
「見ましたわ。金髪の美人さんでしょ?」
 すぐに、理莉が答えた。
 鞠尾が関心を示す美人というのは、男のことだ。それもマッチョに限定される。
「そうそう、すごい奇麗な金髪で……アタシ、男の癖に長い髪の人って嫌いなんだけど、彼だけは別だわ」
「現実離れした感じの人でしたものね。何者なんでしょう」
「芸能人にしちゃ品があったわ。でも、ものすごいオーラがあって、絶対に一般人じゃないわ。彼!」
 オネエのオヤジが両手を祈るように合わせて、なよなよと身をくねらせた。
 見上げるほどの大男だが可愛いと思えば、そう見えなくもない。
 鞠尾は夢見る乙女だ。何よりその場の空気を読み、相手の気持ちを察してくれる。

「へぇ……プロレスラーかな。上品なプロレスラーってのも変わっているけど」
 彼好みの金髪美人と聞いて、杏珠はとっさに外国人レスラーを思い浮かべた。プロレスラーなら長髪もたまに見かける。
「それが違うんですのよ。杏珠ちゃん。もっとほっそりとした男の方でしたわ。それになんて言うのかしら……その近寄りがたいような、それでいて見ているこちらの気持ちを惹きつけて放さないような方でしたの」
 さりげなく杏珠の腕に、胸を押し付けるようにして理莉が抱きついてきた。人形のように華奢でいながら、理莉の胸のボリュームはかなり大きい。
「遠目で見ただけなんですけど、ぞくぞくってるするような……なんとも言えない気分になりましたわ」
「子宮が疼くってことなのかしらね」
 鞠尾が恥ずかしそうに、小声で言う。
 姿はハゲの親爺だが、彼の心は乙女だから、子宮も疼くのか──いや、乙女の子宮は疼いたりしない。

「映画俳優かもしれないわ。ハリウッドとかの……それとも、モデルかしら」
「まさか。この展覧会に出品した方かも、それとも関連会社の?」
 理莉は、好奇心満々といった様子だった。
 しかし二科展のような大きな美術家団体なら芸能人の出品などもあるらしいが、ここの公募展などたいしたことはない。
「でも目つきがなんていうのかしら。眼差しに力があるっていうのかしら」
 長髪で上品ないかついマッチョ。
 杏珠の想像力をはるかに超えている。
「こっちの美術館の入り口をじっと見ていたのよ。なんだかアタシ、恐かったわ」
「あら、鞠尾さんのほうが怖いですわ」
 筋骨隆々の大男に向かって、ビスクドールのような美少女がきっぱりと言い切った。
 理莉に言われて「いやん」と鞠尾は身を捩じらせる。
 確かに鞠尾の方こそ化け物じみているのだが、それを言ってはいけない。
 旧日本軍の軍人みたいな鞠尾にこう言われるのだから、どんな男なのか。

「そう言えば、今日来る大事な取引先って」
 ふと思い出して杏珠は、口を挟んだ。
「そうだったわ。もうすぐ社長といらっしゃる頃よ。この絵持って行くわね」
 鞠尾は「んしょっと」と小さく声を上げて、立派な額に入った80号の洋画を持ち上げて、展示場に向かった。
 確か、今度フランスのルーブル美術館の常設展示場を借りて、展覧会をすることになっているから、その関係者だろうか。
 ルーブルといえば世界最大級の美術館だが、地下には一般の企業がギャラリーを借りることもできる。



 ──長い金髪の……。

 杏珠は、自分の考えを打ち消すように首を振った。
 目つきが悪くて、そのくせ、ものすごく色っぽい……いやいや、何を考えているんだ。自分よ。
 忘れたくても、忘れられそうもない。
 つい数十時間前まで、杏珠の身体を好き勝手にしてくれた男だ。
 思い出すだけで、ぞくっと身体が震えた。
 豪奢な天蓋のある寝台の上で、広い浴室で……散々、弄んでおきながら決して最後まで身体を繋げない。
 杏珠は、息も絶え絶えになりながら、彼の手の中で何度も上りつめさせられた。
 拒絶しているはずなのに、身体は心地よさを伴う疲労で一杯になる。
 頭が真っ白になり、夢を見ていたのかと思った。
 だが、微かに甘い樹木のような香りと、肌に散るくちづけの痕が、確かに男の気配を残している。
 身体の奥処の疼くような感覚が甦るようで、受付のパイプ椅子に座ったまま杏珠は、深いため息をついた。

「杏珠ちゃん。ため息ついている場合じゃありません。噂をすれば影ですわ」
 理莉の声に驚いて、杏珠はガラスの自動ドアの方を見た。
 頭髪が薄く、ちょっと肥満ぎみの社長の隣に、背の高い金髪の男が並んで歩いている。
 その姿を見て、杏珠は息が止まった。

【マグダラのマリア】
新約聖書中福音書に登場するイエスに従った女性。聖人。
悪霊に憑かれた病をイエスによって癒され、その受難を見届けたのち復活したイエスに最初に立ち会った。
マグダラという地方で商売をしていた娼婦だという説もあるが、このことは聖書の記述にはない。
『洞窟のマグダラのマリア』ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル
【二科展】
日本の美術家団体のひとつ。歴史は古く日本を代表する公募展だが、芸能人がしばしば入選することでも有名。

【Venus Pudica(恥じらいのヴィーナス)型】
古代彫刻から派生した型。右手で陰部を隠しているのが特徴。他には胸を手で隠すなどのポーズをしている場合もある。

『ヴィーナスの誕生』サンドロ・ボッティチェッリ



inserted by FC2 system