ローマで出逢った自称父親の神父は、意地が悪くて乱暴で、それでいて少しだけ優しかった。
 誰にもされたことがないくらい甘やかしてくれた。
 あの乳白色の温泉のような、身も心も潤びてしまいそうなほどいたわってくれる。
 細やかな思いやりに満ちた優しさにどっぷりつかってしまいそうなのに、全身がばらばらになりそうなほど激しすぎる愛撫はなんだったのだろう。
 まるで、鞭と飴だ。
 そういえば、あの神父といるといつも遊園地のジェットコースターかフリーフォールに乗ってるみたいだった。
 気分の上昇下降が激しすぎるのだ。
 あんなのとまともに付き合っていたら、心臓がもたない。



 神父は、約束どおり観光客の入れないようなヴァチカンの奥深くまで見せてくれた。
 宮殿の歴代法王が使う接見の間に通されて分不相応なほど丁重な扱いをうける。その居心地の悪さにせっかくの美術品を堪能することもできなかったほどだ。
 前教皇の祈りの部屋には、ミイラのようにやせ細ったイエス像があった。確かに十字架がないので言われなければ、これがキリストとは判らない。
 ガラスケースに収められた最初の殉教者ステファノの首は、むごい石打ちの刑の痕があってかなりグロテスクだった。
 石打ちの刑は、罪人の下半身を生き埋めにして大勢で石を投げつける古代の処刑法らしい。即死しないように石はあまり大きくないものが使われたという。
 うんざりとした顔をする杏珠にイリアは笑った。
「これは、人間が神と肩を並べるただ一つの方法だ」
「どういうこと」
「神と同じく残酷になるしかない」

 イリアの言葉を聞いて、不思議と反論する気にはなれなかった。
 歴史を振り返るまでもない。
 この地上のどこかで戦争は続けられ、神の名の下に多くの虐殺が行われてきた。
 だが、今の杏珠が口をつぐんだのは、そんな理路整然とした解釈があったからではない。
 もしかしたら、その血のような眼の色を見てしまったせいだろうか。
 悪魔みたいに底が知れないほど暗く恐ろしげで薄気味悪い。まともに見るのも怖いはずなのに、妙に心が騒ぐ。
 気になって仕方がない。
 どこか後ろめたいような、すまないという気持ちで胸の内でせめぎあっている。
 凝った血のような濃い赤い色は、彼自身の流した血の色のような気がした。
 神様って……“愛”とか“救い”とかそういう優しい存在じゃないの?
 そんなことを言ったら、イリアはどうするのだろう。

 ルネサンスふうの青と赤と金色の縦縞の制服を着た警備兵たちが、彼の姿を認めると手にした鉾と槍を地面に叩きつけて時代がかった大げさな敬礼をする。
 敬虔なキリスト教徒なのだろうか。ひざまずいて彼の足にくちづけする老人さえいた。



 さらには、豪華な食事にドレスが杏珠のために用意された。
 ローマはミシュラン星付レストランが少ないらしい。食べても、食べても出てくる前菜には食傷したほどだ。
 夜はパーティに誘われた。
 なぜ、そんな誘いに乗ったのか。考えても判らない。
 普通ならさっさと断って、沙織や曜子がいるホテルへ戻るべきだったのだ。
 多分、夢を見ていたのかもしれない。
 映画や物語の中でしかない世界に、もう少し……少しだけ浸っていたかった。
 後でどんな報いがあるのか。
 それを考えれば恐ろしいのに、どうしても夢から覚めることができなかった。

 ローマ郊外にあるブラッチャーノ湖のほとりに建つ古城。中世の香りの残る城での舞踏会はまさに夢のようだった。
 まるで杏珠の知らない世界の──貴婦人や貴公子と呼ばれるような人々に紹介され、踊りに誘われる。
 それがワルツなのか、マズルカなのか。とてもではないが、絵本に登場するシンデレラのようには踊れない。
 ただ彼に身体をゆだねているだけで、周囲の注目を一身に浴びているのが判った。
 でも、あれは一度体験すれば、もう二度目はいらないと思う。
 裾を引く長いドレスや宝石をあしらった装飾品には眼がくらむばかりだったが、ガラスの靴のような高いハイヒールには辟易した。
 それは、どこまで行っても現実感のない夢の中の出来事のことだ。
 今、思い返しても信じられない。






 イタリア旅行中のみならず、帰りの飛行機まであの男が手配してくれたものだ。
 長距離大型ビジネスジェット機をチャーターしてくれたのだが、飛行機というよりほとんどホテルのようだった。
“空飛ぶスイートルーム”と呼ばれているそうだ。
 通常であれば、空港の建物に入ってから搭乗手続きで並んで離陸まで2時間近くかかるはずが、わずか三十秒後には機上。
 エアラインと比べ遥か高度を巡航するため、台風などや気流などの影響を受けにくいのだと乗務員から聞いた。確かに、ほとんど揺れなど感じなかった。
 いったい、あの男は何者だったのか。
 結局、彼の正体は知れぬまま、レオナルドダヴィンチ空港で別れた。
 空港では、人前にもかかわらず強引にキスをされた。まるですべてを奪われるような深いくちづけ。
 気がつくと、杏珠自身も彼のくちづけに応えていた。
 舌を絡め、彼の広い背に腕をまわして……まるで本物の恋人同士になったような錯覚さえ感じていたのではないか。
 でも、それは夢。
 目覚めれば覚める。
 頭では冷静に考えているつもりなのに、もしかしたら浦島太郎のように幾千年もたっていてどこにも知っている人がいないのではないか……と、半ば本気で怯えていた。
 それでも日本に戻ってきたら、家族がいて友人もいる。
 何も変わってはおらず、あっけないほどいつも通りの日常に戻っただけであった。










「ドラマティックで情熱的なロマンスに、出逢ったのかと思いましたわ」
 そう言いながら理莉は、ゆっくりと杏珠の前に回りこみながら顔を覗き込んでくる。
「杏珠ちゃんが行ったのは、イタリアでしたものね……イタリアの男性は、日本とはまるで違いますもの」
「ナ、ナンパとか……ね」
 杏珠は、理莉に調子を合わせた。
 あの男からもらった物はすべて返したはずだ。
 宝石もドレスも、豪華過ぎるそれらは何もかも、今の自分には不要の物だった。
 だが、彼はくちづけの痕を残していたらしい。
 ふたつのアーモンドのような細長い眼が杏珠を見つめていた。
 もともと同性愛を思わせるような突拍子もない言動が多い理莉だが、今日は様子がおかしい。
 ねっとりとした目つき。杏珠の首筋や胸元を小刻みに震わせるようにして撫で回す。それが妙にいやらしい。
 あの男に触れられた感触を彷彿とさせた。
 それ以前には感じることのなかった背筋が総毛立つような、なんとも言えぬ感覚はあの男に教えられたものなのかもしれない。
「残念ながらそんな気分じゃなかったよ。派手に振られたばっかりだし」
「そうですわね」
 やけに断定的に理莉が答える。
 なおも理莉は、疑うように杏珠の顔を覗きこんでくる。
 冗談で言っているのか、本気なのか。
 このガラス玉をはめ込んだような榛色の眼で、訴えられるように見つめられると困ってしまう。
 理莉の黒眼が右と左で奇妙な動きをする。まるで本物の人形のように見えた。

 ただの行きずりの男だ。
 もう二度と会うこともないだろう。
 シンデレラにはなれそうもないし、なりたくもなかった。
 映画やロマンス小説の中だけの世界。通俗的で、安っぽくて胡散臭い。
 だから、今の現実にほっとしている自分がいる。



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