「それならいいんですけど……杏珠ちゃんってば、すごく変だったんですもの」
「……変って?」
「なんとなく、ですわ。……うまく言えないんですけど」
「あ、……だからね。言ったじゃない? スペイン階段から落ちて腰を強打したもんだから、まだ腰が痛くって」
 杏珠は、帰国してから、何度も繰り返していた名分を並べた。
 イタリア旅行の最終日にホテルに戻らなかった言い訳だ。
 曜子と沙織の買い物を待っている間に、スペイン広場の階段から落ちて腰を打ったために動けなくなり、親切な神父に介抱してもらった……ということになっている。
 どこで調べたものか、イリアは旅行会社の添乗員はおろか、友人やホテルにまで手回しよく連絡を済ませていたのだ。

「まあ、大丈夫ですの。ここ?」
 いそいそと理莉は、杏珠の背後に回って、腰やら臀のあたりを撫でまわしてくる。
 理莉のスキンシップは過剰だ。やたらと理由をつけて触りたがる。
 本人によるとイギリスでの暮らしが長かったために、ついハグやらキスが習慣になったそうだ。
 だが、イギリス人はこんなに同性の身体をまさぐったりするものだろうか。
「痛みます? ここかしら」
 理莉は小首を可愛く傾げて見せる。ただその人形のように愛らしい顔をしていながら、手だけは忙しく動く。
 作品の搬入の手伝いがあるから、ジーパンにスニーカーをはいているのだが、分厚いデニムの生地の上からでも彼女の手は、杏珠の臀部の丸みにそって撫でたり、揉んだりしている。いやでもあの男の手を思い出してしまう。
「理莉……大丈夫だから、お尻の肉を揉まないで」
「だめですの?」
「だめです」
「触っちゃだめなら、どうしてお尻はありますの?」
 え、それって、真顔で聞かれることなの?

「どうしてって……座る時とか?」
「それだけ? もったいないですわ」
「………………」
 おちょくっているのかもしれないが、やっていることはセクハラ親爺と変わらない。
 相手が女子高生でなければ張り倒しているところだ。
 それより、イリアが他にも痕をつけているかもしれない。
 杏珠は、理莉を引き離してわざとらしい咳払いをしてみせる。
「ここ受付なんだから、お客さんが突然来るかもしれないでしょ?」
「うふっ。まだ来ませんわ。展覧会は明日からですもん。本当はリリのバイトも明日からなんですけど、早く杏珠ちゃんに会いたくって、学校からまっすぐにここに来たんですよ」
「一般のお客さんじゃなくて、うちのお得意様が来るの」
 とは言ってみたが、画廊の得意先のことを杏珠は、誰も知らない。
 普段は、受付といっても電話番だけの仕事なのだが、かかってくるのは社長の友人ばかりだ。
 よくこんなことで、会社が経営できていると感心する。
 いつもは暇な画廊だが、休み明けには年に二回の公募展がある。
 社長の道楽でやっている洋画をメインとした日本画、工芸、書などの展覧会で会場は市の美術館を半分ほど借り切って行われた。
 いつもは暇な画廊がバイトを雇うのは、年に二回の公募展の時だけだ。
 社長の道楽でやっている洋画をメインとした日本画、工芸、書などの展覧会である。
 会場は市の美術館を半分ほど、借り切って行われた。

 重い腰を上げて、杏珠はのろのろと支度を始めた。
 理莉に手伝わせて、折りたたみ式の長テーブルに白いクロスを広げ、受付の張り紙を下げる。
 控え室から持ってきた芳名帳と万年筆に筆ペンを並べてしまえば、とりあえず受付の用意は終わりだ。
 奥の控え室には営業の男性社員が来ている。すでにポットには緑茶を入れておいたし、来客用の茶菓子の用意も抜かりない。日持ちのする煎餅に、年寄り向きの羊羹は常温保存が可能だ。
 さしあたって、入場者が来るまではすることはない。
 杏珠は、ガラス張りのドアを伺って外に誰もいないのを確認すると、ゆっくりと肩を回して腰を伸ばす。
 筋肉痛なのか。腰や背中がひどく痛む。
 それもこれも、あの神父のせいだと思うと、むしょうに腹がたった。あの男に対してではない。自分に腹が立つのだ。



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