「ふひゃっ!」
 開館前の人気のない美術館に、杏珠の甲高い声が響き渡った。
 時差ボケと寝不足でぼんやりしていた頭を抱えて受付のテーブルに突っ伏していた杏珠の背後から、柔らかいものがしがみついてきたのだ。
 その場から跳ね上がりそうなほど驚いたが、背中に押し付けられた二つの丸いふくらみには覚えがあった。
 下着で締め付けていないらしいバストの膨らみは、そのままの柔らかさを背中に伝えてくる。

「……何してるの。理莉」
 背後から抱きつかれたまま杏珠は、首を回して後ろを見た。
 理莉は、無言のまま自分の胸をぐいぐいと押し付けてくる。
 小柄で華奢なくせに、はちきれそうなほど豊かな胸だ。
 たちまちその中央が固く尖りはじめるのが、布越しでもはっきりと判る。
「ブ……ブラは。ちゃんと着けなさい」
 冷静に言おうとしているのに、声が裏返ってしまう。
 女同士でも平静でいられない。こんなに慌ててしまうから、高校生におちょくられてしまうのか。
 平静を装うつもりで、へばりついてくる理莉を引き離した。
「お、女の子なんだから、身だしなみはきちんとしてね」
「ふふっ。杏珠ちゃんってば、生活指導の先生みたい」
 小首を傾げて理莉は、朗らかに笑う。
 ブラはないもののキャミソールだけは着用しているせいか、白いブラウスの下に透けることはないらしい。それでもかなり人目を惹く。そうでなくても目立つ美少女なのだ。
 幼い顔立ちが、いっそうグラマラスな肢体を強調する。
 ギンガムチェックのプリーツスカートに紺ソックス。細い華奢な脚が大腿のあたりまで見えた。
 彼女が着ているのは有名私立高校の制服だ。
 最近の高校生の制服は、デザイン性を重視しているせいか、あまり長くはない。
 それにしても短すぎるのは、おそらくは自分でスカート丈を改造しているようだ。
「これって、キスマークじゃありませんわよね?」
 耳もとで喋られて、杏珠は身体を硬直させた。
 甘ったるい人工的な香水の匂いがする。
「そそそ、そ、そんなもんあるわけないでしょ」
「……杏珠ちゃん」
 指先で首筋を撫で上げられ、うなじがざわざわと総毛立つ。
「イタリアで何があったの」
 ねばりとした目つきで、理莉は恨みがましく言う。
「な、何にもないわよ、べ、べ、別に」
 杏珠は体中から冷や汗が噴出すような気がした。
 慌てて首を抑えたが、その動揺がかえって怪しまれたかもしれない。
 ちょっと過剰反応だったのだろうか。
 まずい。非常にまずい。

 高校生に自堕落な大人の姿を見せてはいけない。
 酔った勢いで、知らない男の人と寝ちゃいました。テヘッ。
 なんてこと言えない。言えるわけない!
 必死で言い訳を考えるが、舌がこわばった。うまい言い訳が思いつかない。
 スペイン広場のバールでのことなど旅先の夢に過ぎない。旅の恥はかき捨てだ……どうしたらいいものか。
 それにしてもキスマークだなんて、自分には縁のないモノだと思い込んでいた。
 あの男に思いっきりしてやられたらしい。
 イタリア人は、そういうものなのか。

 考えてみれば、元カレとの付き合いでこんな代物が残るような激しい行為はなかった。相手がヘタなのか。あたしのほうに肉体的問題があったのか。
 別れた原因は、そちらの方面のことだったのだろうか。今となっては、確かめようもないし、確認したいとも思わない。
 結婚を意識していた男と別れた直後に、行きずりの男と一晩かぎりの関係を持ったり……あたしは、そんな女だったのか。
 すべてが、つい最近のことだというのに、まるで前世紀の出来事のようだ。我ながら淡白というか、アッサリしすぎている。
 あまりに現実離れしていた出来事だったから、もしかしたら本当に夢を見ていたのかもしれない。



 ……などとノスタルジックな気分に浸っている場合ではなかった。
 理莉の視線は、首筋に当てられている。
 ローマの夢の痕跡。などと言うと、少しロマンチックな気がするが、結局のところただの鬱血痕だ。
 本当にどうしよう。あのエロ神父を恨みたくなってきた。

「ねえ、誰ですの。杏珠ちゃん」
 小柄な理莉は下から覗き込むようにして、杏珠の顔を見上げてくる。
 精巧なアンティークのビスクドールのような美少女で、長い波を打つようなウェーブのかかった栗色の長い髪と、抜けるような白い肌をしていた。
 ふたつのアーモンドのような細長い眼はけぶるようで、大人になりかけた少女特有の危うさがある。
 人形のように細く華奢な体つきでありながら、張り出した腰、豊かな胸元は同性でもつい目がいってしまう。
「ねえ、ねえ、恋人とは別れたって言ってたでしょ。ねえ? 杏珠ちゃんってば?」
「わ、別れたよ。キレイさっぱり」
「それじゃ、誰が? 誰がリリの大事な杏珠ちゃんを!!」
「違うってば、そんなんじゃないんだから」

 すいません。本当にただの行きずりでした。
 脳内で、なぜか謝っていた。強気に出られるとつい謝ってしまう。
 流されるままにあの神父と、ずるずると行為にいたってしまったのも、この性格のせいか。
 顔はいいけど目つきが凶悪で、脳内構造はかなり歪んでいる。
 もう二度と会うこともないだろう。あんな美人と一晩の夢を見たってことで忘れてしまえばいい。
 それより、いつから自分は“理莉のモノ”になっていたのか。
 彼女は社長の遠縁の娘で臨時のバイトとして、受付の杏珠を手伝っていた。
 理莉との付き合いはまだ一週間ほどだが、なぜか初対面の時から杏珠に懐いて、そばから離れなくなったのだ。

「本当ですの?」
 なおも理莉は、疑うように杏珠の顔を覗きこんでくる。
 冗談で言っているのか、本気なのか。
 このガラス玉をはめ込んだような榛色ヘーゼルの眼で、訴えられるように見つめられると困ってしまう。
 理莉の眼は斜視らしく、黒眼の動きが右と左では少しずれがある。そのためかどうか、本物の人形のように見えた。
 華奢な理莉だが、本来の歳よりも落ち着きがある。
 実際、社会人の杏珠よりもしっかりしている。言葉遣いも丁寧過ぎるほどだ。
「どうしてお帰りの飛行機は別の便で帰っていらしたの。リリ迎えに行ったのに」
 そう言えば理莉は杏珠自身より旅行の日程を知っていたはずだが、まさか迎えに来てくれているとは思わなかった。
「えっと……飛行機の故障だったっけかな……突然だったから、そのごめんなさい」
 故障なんかではない。
 単に帰りの便に間に合わなかったのだ。
「まさかプライベートジェットで戻ってらっしゃるなんて、びっくりしました」
「…………そ、それも、たまたま運がよくって……」
「ふうん、ローマでアラブの富豪にでも見初められたのかと思いましたわ」
「まさか、安手のロマンス映画でもあるまいし」
 自分で言いながら、杏珠はおかしくなった。
 ごく平凡な主人公が旅先で、影のある美青年と恋に堕ちる。
 実はその男がどこかの国のプリンスで……そこまで考えて、杏珠は自分の想像力に呆れる。
 だが、確かにあの豪遊ぶりは半端ではない。



inserted by FC2 system