「ぐしっ、ぐすっ」
「……泣くな」
「泣いてなんか……ぐしゅっ」
「そら、あんまり泣くから、鼻水がたれた」
「う、うるひゃ……お、ぉわっ!!!」
 もがくうちに滑った。頭まで湯の中に沈む。
 すぐに引き上げられたものの、杏珠はむせ返ってしまう。文句を言い立てていた開けっ放しの口から大量の湯を飲んでしまった。

 男のほうが服を着たままなのに、自分だけが全裸という無防備な姿。
 風呂というよりプールとでも呼びたくなるような巨大な浴槽は、大理石なのか白っぽいマーブル状の文様のある石で造られている。足が底に着かないほどの深さがあった。
 抱きかかえられたまま浴槽に浸けられたが、イリアにしがみついたまま手を放せない。
 さっき、溺れかけたぐらいだ。怖くてたまらない。
 彼は、濡れるのも構わず服を着たまま一緒に入ってくれる。どうやら足は着くらしいが、まさか、ここまでしてくれるとは思わなかった。
 イリアの顔を見あげるとわずかに眼を細めて、手間のかかる……と笑う。

 機嫌の良さそうなイリアが恨めしい。
 泣いて叫んで暴れても、結局はこの男の言いなりになってしまう。
 喚きすぎて、喉が痛くなり、顔も涙と鼻水で散々なことになっているはずだ。
 その顔にイリアは、何度も繰り返しくちづけする。涙を吸われ鼻水まで舐められると、杏珠は恥ずかしさのあまり夢中でまた暴れた。
 それもすべては無駄な抵抗で背後から抱きかかえたまま、やんわりと手足を抑え込まれてしまえば身動きもできない。
 乱暴なようでいてイリアは優しい。まるで手の中の宝石のように杏珠を大切に扱う。
 そんなふうにされるのは初めてのことで杏珠は、恥ずかしく戸惑ってしまう反面、少し嬉しくもあった。
 昔から甘えるのが苦手で、先に誰かに甘えられてしまうとタイミングを逃して、自分が甘えることを我慢してしまう。
 本当は臆病で小心者のくせに強がっているだけの杏珠を家族や友人たちは知らない。
 恋人でさえ“お前は一人でもやっていけるから”の一言で離れて行った。
 人の優しさに飢えていたのかもしれない。
 だから無意識のうちに杏珠は、男の行為を受け入れてしまったのだろうか。



 壁面にはギリシャやローマ彫刻のような裸体の男女の像が配置されている。
 たちこもる湯気のせいで、あまり遠くまで見えないが、どこからか湯を引き入れているらしい水音が聞こえた。
 自分を抱きしめてくれているイリアの厚い胸の奥に息づく鼓動を肌で感じ、その音を聞いてると不思議と落ち着く。
 温泉なのだろうか。白く濁った肌触りのよい温かな湯につけられながら、優しく触れられていると、身も心もとろとろと、ほとびてしまいそうだった。
 だが、そうやって見ず知らずの男の意のままにされるのが、とても悔しい。
 悔しいが抵抗もできずにいる。
 何より、流されてしまう自分が情けなくも腹立たしかった。何という体たらくだ。




「イリア……あなたって、どういう人なの。ここ、どこ?」
 杏珠は、イリアの膝の上に乗せられたまま言った。
 恥ずかしかったが、おとなしくしているしかない。泳げないわけではないが、やはり怖かった。
「風呂だろう?」
 まっすぐに杏珠の顔を見つめながらも、イリアは二の腕や腰のあたりを撫で回している。
 スケベなのか。ただのスケベか?
 けっこう肉付きがよすぎて、自分でも気にしている箇所なのだ。やめてほしい。
 もっとも、別の場所ならいいというわけでもない。
 この男……見かけに騙されそうだが、かなりのスケベだ。それも触り方が親爺っぽい。
 人間としての尊厳さえ失いそうなほどの羞恥を思い出して顔が熱くなる。
 子供の頃に弟に仕掛けたプロレス技を、大人になって自分が決められるとは思わなかった。もう死にたい……。
 気持ちとともに身体ごと湯の中に沈み込むと、すかさずイリアが支えてくれる。
 馬鹿だ。馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿……。



「どうした。湯あたりしたのか」
 心配そうなイリアの声を無視してやろうかとも思ったが、また口移しに水を飲まされるのも困る。杏珠はふてくされて言った。
「……ここ、どこなのよ」
「風呂だと言ったろうが」
「どこの温泉よ。ちゃんと答えてよ。ここはどこなの。アナタいったい誰なの!?」
「さて、どう言えばよいのか。ここはここだ。俺の名とて一つではない。かつてはお前の父でもあった」
「あたしのお父さんは、ちゃんと別にいるわよ。今頃、会社に行っ……あ!!」
「どうした」
「今、何時なの。早くホテルに戻らなきゃ……」
「まだ大丈夫だろう。夜が明けたばかりだ」
「夜明けって、もう一晩たっちゃったの?!」
 なんてことだろう。
 曜子や沙織たちは心配しているかもしれない。もしかしたら、旅行会社とかに連絡されていたらどうしよう。

 うつむきかける顎に長い指先が触れた。
 そのまま上を向かされ、まるでくちづけせんばかりにイリアの顔が近づく。
「本当に帰りたいのか?」
 まっすぐに杏珠を見すえるイリアの眸は、まさに血の色だった。
 彼の血は暗く冷たい。深い闇のようだ。見つめていると息が詰まる。心に絡みつき、呑み込まれてしまいそうだ。
 闇の色にも似た隻眼とは裏腹に、まるで日の光を集めて紡いだような黄金色の髪が頬にこぼれ落ちる。

「俺はお前と約束したな……どのような望みでも叶えてやると」
 引き剥がすように視線をそらせながら、杏珠は大きく息をつき言葉を捜す。
 おそらくイリアは勘違いをしている。
 そんな約束をした覚えなどない。
 会うのは初めてであり、彼を父などと呼んだこともないからだ。
「何度も言うけど、あたし、あなたと会うのはこれが初めてなのよ。たぶん……あたしは違う」
 言いながら、情けなくって泣けてしまう。
 人違いなんて、笑い話にもならない。
 しょせん自分は、姫君にはなれないのだと、あらためて思い知る。
 恋に恋する時期とはいったい、いくつまでなら許されるんだろう。
 判っていたことだ。
 それなのにどうして、この男の意に添うようにしてやりたいなどと思ったのか。
 後悔ではない。胸の奥をつんと刺す痛みがあった。

「まだ言うのか。わが子よ」
「だから、あなたの子じゃないって……」
「“主”は、土地の塵でヒトをかたち造り、その鼻に命の息ルーアハを吹き込まれた。そこで、ヒトは生きものとなった」
 唐突にイリアは創世記の一節を口にした。
 別にクリスチャンというわけでもないが、カトリック系の幼稚園に通っていたことがあるので、聖書の話は子供の頃に何度も聞かされた。
 ちなみに実家は仏教徒であるから、盆になると寺の地獄絵図を見せられた覚えもある。
 嘘つきは閻魔さまに舌を抜かれるぞ……と脅かされた次の日に、幼稚園の園長先生から神の愛について教わったわけだ。

「ヒトを造ったのは俺ではない。だが、お前に生きるための術を教えたのはこの俺だ」
 まるで歌うような低い声が、耳に心地よく、そんな場合でもないのに杏珠はうっとりと聞き惚れた。
 低い艶めいた声は、ぞくぞくっと甘い痺れが走るほど蠱惑的だ。
 顎にかけた彼の手に力がこもる。
 視線を泳がせる杏珠の目の前にイリアの冷たい美貌がおおいかぶさり、有無を言わせず唇を奪われた。
 荒々しく唇を吸われ、舌が絡みつく。
 噛みついてやろうとしたが、すぐにイリアは離れた。
「“害をなし、血を流す者”の中にあって、お前だけは違う。お前だけが俺のものだ」
 イリアは唇の端だけ、きゅっと上げて笑う。
 暗い眸の中に不敵で妖艶な微笑が広がる。
 その顔にぼんやりと見惚れてかけて、すぐに杏珠は我に返った。
 イリアから離れたいが、湯の中ではあまり動けない。しっかりと腰を抱かれているので逃げられなかった。
 いっそう引き寄せられて、腰から下に圧迫感を感じる。

「……っ、や!」
「お前は長いこと、この俺を苦しめていたのを知っているか」
 腰や腕を触っていた手が、滑り込むようにして身体の前面へきた。まずい。非常にまずい。
 身を縮こまらせて、イリアの侵入を阻止しようとする。
 無駄な抵抗だとは思うが、必死である。
「神は……いや、運命と言おうか。常に俺の敵対者であった。お前を俺に与えながら、また奪い去った。さすがにこの悪意ある運命にはこたえたが、俺はまだ耐えることができた」
 低い艶やかな声が聞き取れないほど、かすれている。
 この男は偏執狂か。
 あるいは何かの妄想に取り付かれているのか。
 自分の脳内だけで妄想を膨らませた挙句にいきなり飛躍した考えを相手に押し付けるのは、まさにストーカーの典型だ。
「お前を再び抱くことができたのだからな」
 イリアは射止めるように、杏珠を見つめたまま笑う。
 笑っているのに、どこか苦しみを湛えたような表情をしていた。
「な、何を言ってるの……」
 凝った血のように暗い隻眼で見据えられ、杏珠は必死で言い返した。
 黙っているとそのまま取り込まれていきそうだ。
 紅い眸の奥から冷たく激しい光が浮かび上がった。
 もう遅いのかもしれない。
 ヴァチカンで感じたあの予感は、間違っていない。
 これは、蟻地獄だ。
 くらい地底へと引き入れられていく。



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