天蓋から下げられた薄い紗の向こうから明かりが差し込む。
 いったい今は何時なのだろう。時間の感覚がまるでない。
 さっきまでのことが、嘘みたいだ。
 杏珠は、リネンに潜り込んだ。
 ここはどこなんだろう。
 ふんわりとしたマットレスは心地よいが、落ち着かない。
 一人にされるとたまらなく不安になった。
 リネンの隙間からあたりを伺っていると、手にグラスを持って戻ってくるイリアが見える。
 糸のような金髪が肩から腕に、光のようにまつわっていた。

 なぜだろう。
 油断も隙もない相手にどうして、これほど依存してしまうのか。
 白いリネンと羽毛の枕にうずもれてむくれた。自分の心でありながら、どうしてこうも思うようにならないのだろう。
 身体の上にのしかかるようにして、イリアはくちづけする。
 思わず身じろぎしたが、彼はがっしりと首をつかんで上を向かせて止めようとはしない。
 抵抗するべきなのだろうが面倒なので、そのままでいる。
 唇から冷たい感触が流れてきた。
 口移しで水を飲まされている。水の冷たさにびっくりして、少し動いてしまった。
 動いたせいで水は零れて、おとがいを伝う。
 あんなことをした後でも、不思議とイリアには生々しさはない。
 彼が神父という種類の人間だからだろうか。
 真冬の湖の中に手を入れるような冷たさを感じた。触れ合ったという実感がない。そうだ。精の臭いがないんだ。雄特有の……。
 それどころかあいかわらず、いい匂いがする。
 香木のようなオリエンタルな深みのある香り。
 杏珠の唇からこぼれた水を指先でぬぐって、さらにイリアは口移しを繰り返す。
 イリアの唇と水は冷たい。

 冷たいが……できれば、普通に飲みたかった。
 すっかり水を飲みおえてしまうと、杏珠は吐息をつく。
 なんだか肉体的にも精神的にも色々と疲れた。
 眼が合うと、イリアが唇の端だけをきゅっと上げて笑う。
 なんというか、彼のバリトンに相応しい笑い方だった。
 バリトンといえば、オペラではたいてい悪役だ。
「初めてだから仕方がないが、次はこの程度で済ませると思うなよ」
「はあ、何言ってんの?!」
 この次って、なんなのよ。この次って……もう、これっきりなんだから!!
 思わず言い返してやろうとして、イリアの眼差しの切れるような鋭さに杏珠は口ごもる。
 こんなヤツに同情なんてするんじゃなかった。
 苦い後悔が胸を刺すが、突然、焼きたてのパンや紅茶の深い香りがあたりにたちこめ、そんな感情も吹き飛ぶ。
 空腹感で目がくらみそうだった。



「腹が減っただろう?」
「減ったわよ。もうペコペコよ。あんたのせいよっ!!」
 杏珠は、ベッドの上でリネンに包まったまま怒鳴った。
 恥ずかしいから居直っているだけなのだが、その様子を見てイリアは、眼を細めて笑いながら手を伸ばしてくる。
 何をする気なのかと杏珠は、身を引くがすぐに背後のベットヘッドにぶつかった。
 大きな手が杏珠の頬に触れる。
 硬い指先が頬から顎をたどり、喉もとをくすぐるように撫で上げた。
 まるで猫の喉を撫でているみたいだ。
 こんなことをすれば、喉をごろごろ鳴らすとでも、思っているのか。
 無駄に機嫌のよさそうなイリアが、腹立たしい。
「お前……本当に可愛いな……」
 なんだか、ちょっと悔しい。
 悔しいのになぜか、イリアの手を振り解けずに杏珠は、おとなしく撫でられていた。
 じつはイリアの硬い指先の感触が、とても気持ちよかったりするのだ。
 これが猫や犬なら、ひっくりかえって腹を見せる完全服従のポーズをしているのかもしれない。
 あいにく杏珠は人間であり、たとえ一夜を共にしたところで、得体の知れない男に尻尾を振るつもりは毛頭なかった。
 相手のペースに巻き込まれては、昨夜の二の舞だ。わざと不機嫌そうにしかめっ面を作って、顔をそらす。

 だが、イリアは手を放さなかった。そのままぐいっと引っ張られて、分厚い胸に倒れこんだ。
 歯がぶつかるんじゃないかと、思うほど強引にくちづけされる。
 眼を見開きながら、両腕を突っ張った。男との距離をとろうとするが、そんなことに頓着する様子もなくイリアは顔を傾けて、杏珠の唇を舌で押し開く。
 舌先で歯列をなぞられているだけなのに、その刺激の甘やかさに抵抗できない。
 つい噛み締めていたはずの口許がゆるんでしまう。
 彼のざらつく舌が侵入してくると思ったのに、思いがけず硬く丸いものが口腔に押し込められる。
 冷たい。なんだ。これ?



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