背中が痛い。
 背骨がぎしぎしと音をたてているようだ。
 力が入らず、全身の筋肉が弛緩している。
 もう動きたくない。これ以上はないっていうほど広げられたから股関節がおかしくなっている。
 あたしの人間としての尊厳はどうしてくれるんだ。
 それとも外国人はあのくらい平気なのか。


「どうした、誘っているのか」
 耳元で囁かれた低い声に杏珠は、我ながらどこにそんな体力が残っていたのかと思うほどの勢いで跳ね起きた。
 ほとんど泣きそうになりながら、必死で首を振る。
 冗談ではない。二度とごめんだ。

 本当は、この憎ったらしい男に思いっきり罵声を浴びさせてやりたいところだ。情けないが今は声もでない。
 もっともつい先ほどまで身も世もない声をはりあげて失神していたのは、他でもないこの自分なのだ。
 信じられない。
 自分があんな奇天烈な声を出すなんて……。今すぐ死にたい。いっそ殺してくれと思う。恥ずかしすぎる。
 なんだ。あれは。
 安易なAVの女優みたいなことをやらかした。あの職業の人たちは当然のことながら演技だろう。
 それなら、あたしはなんだ。
 馬鹿か……単に馬鹿なのか。
 穴があったら入りたい。そして、そのまま埋まってしまいたい。
 こちらの様子を面白そうに見ていた男は、のっそりと起き上がった。
 彼が起きるとリネンがめくり上がるので、慌てて引っ張る。

 こいつがなんだか哀れになって、この暗い眸に呑み込まれて、気がついたらいいように扱われてしまった。
 今までだって、男性経験がまったくなかったわけじゃない。数は少ないが……。それなのに、それなのに!
 思い出すと、また死にたくなる。情けなさすぎて。
 本当に赤子の手を捻るっていうのは、あのことじゃないのか。
 確かにこの男は、イロイロと巧みであった。
 未練などカケラもないはずの元カレへのあてつけも、多少はあったのか。
 いや、それはない。絶対にない。もう終わったことだ。
 どちらにしても、半ば捨て鉢みたいなところもあった。
 そうだ。今のあたしの心理状態がちょっとアレなんだ。ちょっと情緒不安定だから。だから、ちょっと変になってるだけなんだ。



 恨みがましい眼で睨みつける杏珠に、男は目を細めて笑う。
 そんな表情をすると、彼の底冷えのする眸が柔らかく見える。
 濃い血のような紅い色は変わらないのに。
 何者なのだろう。
 名前以外は何も知らない行きずりの男。なのに不思議と懐かしいような切ないような奇妙な想いに駆り立てられる。
 慕わしいとか好ましいとか、そんな緩やかな感情は、愛や恋などという激しさとまるでかけ離れていた。
 おそらく、この神父は自分を誰かと勘違いしている。
 それでも……愛していると囁く低い声や、優しく触れられる指先に身をゆだねてしまう。
 傷を舐めあうような、そんな惨めな関係でしかないのだ。
 自己嫌悪に陥りそうで、たまらない。
「そんな噛み付きそうな眼で睨まないでくれ。杏珠」
 そう言ってイリアは顔を覗き込んできた。低い声に囁かれる自分の名前が、耳に心地よく感じる。
 あらためて見ると、しみじみ奇麗な男だと思う。

 ――いや、男でキレイってのも変だけど。
 なんと言うのだろう。
 今どきの若い男の子のような中性的だったり物腰の柔らかさだったりするものが、まったく微塵も感じられないのだ。
 まるで野生の肉食獣のようで、油断も隙もない。
 だが、次のイリアの言葉に杏珠は力が抜けた。
「また泣かせてみたくなる」

 やっぱり、こんな男となし崩し的に関係を結んでしまった自分の軽率さが悔やまれる。
 自分がされたことをこいつにお返ししてやったら、どんなにすっきりするだろう。
 誰かコイツの鼻っ柱をへし折ってやって……と切実に思う。
 軽い殺意さえ抱きながら杏珠は、リネンに噛みついた。
 イリアは肘をついて起き上がり杏珠の額にくちづけると、ベッドから出ていこうとする。
 見知らぬ場所で一人残される不安に、ついついイリアの姿を眼で追ってしまう。
 イリアの肩には歯型がくっきり残っている。
 そういえば夢中で噛みついたことを思い出して、慌ててリネンから口を放した。

 顔だけではなく、イリアはその身体つきまでもが美しい。
 肩幅が広く、胸も分厚いのに、驚くほどに腰がほっそりとしているのが服の上からでも判る。
 モデルというより、なんだかプロボクサーみたいだ。はだけたシャツから見える腹筋はしっかりと割れて、ひとひらの贅肉もない。
 思わず、杏珠は自分の下腹に手を伸ばす。ダイエットするべきだな。
 あまりに流暢な日本語を話しているので忘れそうになるが、彼はどう見ても外国人だ。
 絹糸のような髪は見事な黄金色で、背中よりも長い。
 この髪型では、普通の職業ではないだろう。まさかロッカー?
 筋肉質なヘビメタやビジュアル系のバンドなんて、聞いたことがない。
 ホストか。いや、それもちょっと違うような気がする。
 何より目つきが凶悪と言っていいほど悪い。いくら美形でもこんなホストがいたら客が寄りつかない。
 ますます、彼の正体が判らない。



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