今、この男はなんと言ったのか。
 ワガコだと……。
 昔と変わらず?

 一瞬にして、高ぶった気持ちが冷めた。
 体が震える。もはやそれは恐れや惑乱などではなかった。
 こめかみがひくひくと脈打ち、両手を拳にして握り締める。
 頭から氷水をかけられたようだが、同時に胸の奥から焼けるような熱さがこみ上げてくる。
 脳天は怒りで爆発しそうになったが、ぐっとこらえて深く息を吸い込む。
 そんな杏珠の様子に気が付いたのか、男が顔を上げた。
「どうかしたのか?」

 どうかしたのか、だと?
 女ったらし!
 この男が可愛いだとか、愛らしいとか言っているのは、あたしじゃない。別の誰かに対してだ。
 自分ではない。
 怒りで目の前が暗くなりそうだった。
 自分の軽率さに泣けてくる。しかし、ここでのんきに泣いている場合ではない。
 杏珠は、神父の顔を見上げると顎の下を狙って頭突きをした。
 鈍い音とともに、神父が呻き声を上げる。
 追い討ちをかけるようにして、相手の股間めがけて膝を突き上げた。
 神父は、身体をそらせて杏珠の攻撃を避ける。
 覆いかぶさっていた神父の身体が離れると、慌てて逃げ出しかけた。すかさず足首をつかまれる。
「この、じゃじゃ馬め」
「離してよ。何すんのよ!」
 つかまれたのとは反対の足で必死に蹴飛ばそうとしたが、そちらもすぐに捕らえられた。
「うわっ!!」
 両足とも捕まれ、逆さに持ち上げられた。もはや抵抗もできない。
「やだ。やぁあぁぁあっ!!」
 素っ裸のままの逆さ吊り。なんだ、このプレイ?!
 絶叫しながらも、自由になる手で前を隠す。せめてパンツぐらいは履いていたかった……!

 悔しさに恥ずかしさが重なった。
 脳が煮えたぎる。こめかみがひくつく。
「放して、放してよぉおっ!」
「お前、その足癖の悪さは昔と変わらんな」
「誰と勘違いしてるのよ。あたしはワガコなんかじゃないわ。そもそも、あんたなんて知らないわよ」
 必死で叫ぶ。
 そうやって何か、言葉を発していなければ、恥ずかしさで頭が爆発しそうだ。いや、本当に血が頭に昇ってる。色んな意味でヤバい。
「放しなさいよ。この変態。強姦魔。ケダモノッ!」
「……口の悪いことだな。俺はお前をそんなふうに育てた覚えはないぞ」
「だっ、だから違うってば。あんたなんか知らない!!」
「まだ、言うか」
 神父の舌打ちする音が聞こえた。

 ……え。
 空気が凍った。
 現実に部屋の温度が下がったようだ。
 背筋が寒くなる。
 相手の顔が見えたわけではなかったが、それでも神父の静かな怒りが伝わってくるような気がした。
 全身の産毛が総毛立つ。

 やばい、怒らせた……そう思ったが、今さらどうしようもない。
 つかみ上げられた両足を、さらに引っ張り上げられ杏珠は、全身を硬直させた。
「い、痛い、痛い!!!」
 悲鳴を上げるが、神父は頓着もせず、薄く笑う。
 死にたいほど情けない無防備な醜態を晒す杏珠に対して、神父のほうは服を着ている。
 前開きのシャツを外して胸をはだけていても、しっかりとジーンズははいたままだし、右の手袋も外さないままだ。

「さて、どうしたものか」
 余裕のある、それでいて何か含みのある口調だった。
 思わず身震いする。
 そのまま、ベッドの上で身体を二つ折りにされた。
 足を伸ばしたまま、左右に広げさせられる。
 自分の股間を覗き込むような格好にさせられて、杏珠は悲鳴を上げた。
 だが、咽喉が嗄れて声にはならない。



 何。なんなの。
 これって、プロレス技か?
 子供の頃、弟相手にやったことがある。
 抱え上げた状態を数秒保ち、叩きつけるパワーボム。その後、エビ固めで決めるのだ。
 もっとも、弟の泣き声を聞きつけた母に、こっぴどく叱られたのだが……。
 冗談じゃない。裸でこんな格好。人間の尊厳を無視するつもりか!
 夢中で足をばたつかせて抵抗するが、腰を高く持ち上げられて両足首を捕らえられている状態では、自由になるのは両手だけだった。
 全身全霊をかけて押さえていた手が、簡単に外される。
 最後の抵抗で、両膝と腿に力を込めて閉じようとするのも、こじ開けられた。
 本来は、晒されるはずのない部分が、これ以上はないというほど拡げられている。
 鼠蹊部から中央へざらっとした舌が這う。
「ひっう!!」
 杏珠は、ぞっとして身を捩じらせ、なんとか舌から逃れようとした。
 弟相手にはエビ固めでフィニッシュだったから外し方が判らない。
 身体をほとんど持ち上げられている状態だ。何よりこの状況は弟とのプロレスごっことは違う。
 激しすぎる羞恥で、目の前が真っ白になりそうだった。
 もう死にたい。

「やっ、やだ。放して、やだってば!」
「おとなしくしないと、泣かすぞ?」
「誰が泣くか、放せ。変態!」
 思いつく限りの罵り言葉を杏珠は、神父に投げつけてやった。
 身体は押さえつけられても、口だけでも抵抗してやる。
 この男から発散される雰囲気に呑み込まれまいと必死だった。
 自分の股間の向こうに神父が見える。
 美しい顔。
 その前には自分の体の一部なのに、見たこともない場所がある。内臓がはみ出たようなグロテスクな……。

 ………………死ぬ。

【パワーボム】
プロレス技の一つ。 うつぶせに寝ている相手の正面(もしくは背面)から覆い被さった姿勢から、そのまま相手を抱え上げマットに叩きつけ、相手の首と肩を強打させる。
天龍源一郎・川田利明の得意技。

【エビ固め】
プロレスの基本的な固め技。相手の両足を持ち上げて、体を海老のように折り曲げて固める。

【パパ】
教皇の原語“POPE”は父を表す言葉。
イタリア語で教皇を意味する“パーパ”はアクセントが初めにくるが、お父さんの場合は“パパ”アクセントが後になり、現代では別の単語。



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