「んっふぅ……」
 深くくちづけられて杏珠は、吐息をもらす。
 男の硬い手がゆるゆると、喉に触れ鎖骨のあたりを撫で上げる。
 何度も角度を変え、貪るようにして唇を吸われた。
 冷たい唇とは裏腹に、男の舌は熱い。歯列をなぞり舌に絡む。
 息が苦しい。押さえつけられた腕が痛む。
 しかしそれを上回る別の何か……体の奥のほうから、ぞわぞわっとするなんとも名状しがたい感覚に惑乱される。
 ようやく、男は唇を放す。
 慌てて息を吸う杏珠の頬を指先で撫でながら彼は、低い声で呟いた。
「杏珠……くちづけの時には、鼻で息をするものだ」
 声と一緒に息が吹き込まれて、体がびくっと跳ね上がった。
 その様子を見て、いかにも愉しげに男は喉を鳴らして笑う。
 杏珠の鼻腔に、身体の奥深くに魂を温めるような官能的センシュアルで、どこか切ない香りが入り込む。



 もう一度、唇が塞がれる。
 先ほどとはうってかわって、ついばむような軽いくちづけ。
 まるで怯える子供をあやすように、何度も、何度も触れ合う唇。
 男の唇は冷たく、意外なほど柔らかかった。
 ほんの間近に紅い眸がある。
 杏珠は、自分の胸の動悸を体中に感じていた。
 ふいに首筋に唇が落ちてきた。ちゅく、と音を立てて吸い上げられる。
「……んっ……」
 触れられたところが燃えるように熱くなって、反射的に体が反り返る。
 男の大きな手が喉から胸へ下りて乳房をおおい、ゆっくりと揉みしだく。
「や……恥ずかしい……」
 杏珠の言葉に、男の手が止まる。
 一瞬、自分が何を言ったのか、杏珠は気づかなかった。
 だが男は、聞き逃さなかったようだ。ふっと鼻先で笑う。
 体中の血が脳内に集結していくような気がした。

 ――今さら何を恥らってるのよ。あたし……!
 さっきくすぐられた時に、信じられないほどみっともない格好をした。
 それもこの男はあまさず見ている。
 鼻先で笑われたことが、いっそうたまらない気持ちにさせられた。

 馬鹿にされた。そう思うと、いたたまれないほど悔しい。
 こんなキスぐらいで手の上で踊らされている。簡単にいいように扱われていたなんて情けなすぎる。
 酔っ払って意識なくして、気がついたら知らない男とベッドにいました……など、今までの杏珠の人生ではあり得ないことだった。
 我ながら、けっこうしっかりした性格だと思う。
 しっかりし過ぎて“お前なら一人でもやっていける”とかなんとか言われて振られたことは、一度や二度ではない。
 迷子になったことだって、小さいころからなかった。親の手を煩わせたことだってないのだ。
 酔って記憶をなくすなんてこと今まで絶対になかった。



「ふぁっ!!」
 突然の刺激に、杏珠の体が跳ね上がった。
 止まっていた手が再び乳房を撫で回す。耳朶が食はまれる。
 わずかに歯を立てられた。
 彼の犬歯なのだろうか。まさか牙ではなさそうだが、少し尖っていて痛い。
「……ちょ……あんっ」
 耳の中を舌でかき回される。たまらない音が頭の中に響く。
 ざらっとした獣の舌のような感触と、吹きかけられる息の熱さに、思わずうっとりと身をゆだねてしまいそうになる。
 ダメでしょ。ダメでしょ……あたし、ちょっと、ダメだってば!!
 なんて声出しちゃってるの。
 自分の反応が腹立たしいやら悔しいやらで、ますます情けなくなった。
 男は、ゆっくりと味わうようにして杏珠の肌に唇を這わす。
 硬いごつごつとした手が、乳房を包み込み、その柔らかさを確かめるようにして握る。その刺激に先端が硬く尖り始めるのを感じていた。
 もどかしいほど優しい触れ方。
 そうしながら男は、杏珠のまなじりに唇を寄せ、涙を吸う。
 頬にくちづけしながら、押さえつけていた手を解く。
 そのまま頭に手を置いて撫でられた。
 まるで父か兄のような思いがけないほど優しいしぐさに杏珠は戸惑う。
 よく“女は頭を撫でられるのに弱い”というが、それほど嬉しいと思ったことはない。
 むしろ苦手なほうだったのに今は違う。
 この異様な状況において、肉親の慕わしさを行きずりの男に感じるとはどういうことなのか。
 自分よりもずっと年上にも見えるが、いやもっと近い年齢だと言われてみれば、それはそれで納得してしまうだろう。
 眼を開けると、近々と男の赤い眸があった。右眼から頬にかけて分厚く包帯が巻かれている。暗い優しさを帯びた眼差しに見つめられると、目眩がするほど惹かれてしまう。
 両腕を開放されたのに、もはや杏珠は抵抗できそうもなかった。



「お前のこの身体は、まだ知らぬのだな」
 低い声は聞き取れないほど、かすれていた。
 耳もとで囁かれるその声音に、絡み取られるような気がする。
「ふえっ?」
 我ながら間の抜けた声が出た。
 絡んだ男の細い金髪が、杏珠の喉や胸の先端にまつわる。
 そんなわずかな刺激だけで、身体の震えが止まらない。
「かつては、この俺が教えてやったものを……」
 そんなことを言われても、杏珠には昨夜の記憶が欠片も残っていなかった。
 けれど、女ならばこの男を拒むのは、かなりの克己心が必要かもしれない。
 若くて美しいというだけではない。
 魂さえも吸い込まれそうな鮮烈な隻眼。まるで悪魔の眼のようにさえ思えた。
 見つめているだけで、地獄に堕ちていくような錯覚に囚われる。

「どうした。震えているな。怯えることはない」
 男は機嫌よさそうに応えた。
 それに反して杏珠の方は、嫌な予感に駆られる。
 この状況で怯えるなと言われて、誰が安心できるのか。
 骨ばった硬い手。冷たい感触があるのは左手で、右は薄い手袋をしたままだ。
 その手の無骨さとは裏腹に優しくそっと壊れ物を扱うように、脇の感じやすい部分から胸をゆっくりと撫で上げられた。
 冷たい手が触れる場所から痺れが広がるような感覚。
 唇を噛んで、必死に声を上げそうになるのをこらえる。
 胸のふくらみをこね回すように、激しく揺すりたてられた。指先で勃ちあがった先端を摘み上げられて口に含まれる。

「ふわっ、あぁっ!」
 獣のようなざらりとした舌の熱い感触。
 冷たい爪先が胸の先端をすり潰すように捻られた。
 痛みが際どいところで、快感に繋がる。
 無意識のうちに背中が反り返ってしまう。
 掌を少しずつ胸から腹部へと長い指先を滑らせながら、男は満足気に喉を鳴らして笑う。
「可愛いぞ……杏珠」
 耳に染み入るような艶やかな声。
 なんて声だろう。
 この低い声に絡め捕られるように蠱惑される。
 なんとも言えず、懐かしいような慕わしい気持ちにさせられるのだ。
 見知らぬ男なのに……これは、まるで麻薬だ。脳髄を蕩かせる。
 男の包帯のない左の紅い眼に見つめられるたび、杏珠は切なさに顔に血が上った。
 可愛いと言われるだけで、きゅうっと胸が締めつけられて、涙がでそうになる。

「やっ、ぁあん」
 自分でも恥ずかしくなるくらい、甘ったれた声が出てしまう。
 会ったばかりの男にいいように扱われているのが、たまらなく悔しい。
 悔しいが男は、杏珠の弱いところを的確に攻めてくるのだ。
 冷たいが優しい手の感触、耳朶に忍び込む声音と吐息。
 杏珠は、いっそう身を震えさせた。
 どうすれば杏珠が悦ぶのか、この男は知り尽くしている。
 意識すればするほど、恥ずかしくてたまらない。
 せめて声を出すことだけはするまいと、必死で耐えているものの男の手は容赦がなかった。
 唇をわななかせ杏珠は、夢中で首を振った。
 心の底まで見透かされるように蕩かされる。



「昔と変わらず愛らしい。わが子よ」



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