いくら念じたところで、今の状況が変わるはずもない。
 どうしよう。
 とりあえず、落ち着かなくては。
 そうだ。こんな時こそ、前向きになろう。ポジティブシンキングだ。
 昔、読んだ絵本であったな。“よかった探し”ってのが。
 えっと、……神父がいい男でよかった。
 いや、違う。
 そんな問題じゃない。ってか、この男が性病持ちだったらどうする。
 帰国するなり検査しなければいけないんだろうか。
 陽性なんて結果がでたら、仕事なんて言って休めばいいんだろう。
 いやいやいや。相手が変な病気を持っているとは限らない。もし自分がそうだったら、どうする?
 感染させられるパターンもあるけど、させちゃう場合もあるのよ。
 感染症の潜伏期間ってどれくらいだっけ。
 元カレは、そういう意味では最低なヤツでゴムを使いたがらなかった。
 あ、ちょっと待って。
 妊娠の心配もあるんだった。妹が最初の交渉でデキちゃったわけだし……。
 セックスなんて女にばっかりリスクが多くって、いいことって何一つないじゃないの。
 全然、気持ちよくないよ。あれって。
 ものすごくイイものみたいに聞くけど、現実はそうでもないぞ。
 ダメだ。だんだん思考が後ろ向きになっている。



 杏珠が、急におとなしくなったせいか。神父は腕の力を緩めた。
「テイレシアスによれば、女の快楽は男のそれを大きく上回るというぞ」
「……は?」
 唐突だったので、何を言われているのか判らなかった。
 今は自分のことで頭がいっぱいで神父の言葉など半分も入ってこない。
 杏珠は、男の腕の中で横を向いた。
 何かあったからといって、怒るような恋人もいないし、もし子供ができてしまっていたとしても、父親がこんな金髪美人ならまだ救われるか?
 ちょっと待て。これはポジティブなんてものじゃない。虚しい妄想だ。現実逃避だ。

 頭の後ろには男の胸があり、目覚めかけた時に感じたのが彼の体臭であったことに気づいた。
 体臭といっても臭いわけではない。香水とも違う。
 もっと自然な柔らかい、こうして肌を触れ合って初めて感じるほどの、あるかなしかの微かな匂いだ。
 どこかで嗅いだことのあるような気がするが、思い出せそうもなかった。
 何はともあれ洋服を着るべきだ。考えるのはとりあえずそれからでいい。



 神父の手が、妖しい動きをする。
 慌てて杏珠は、その手から逃れようと身をよじってリネンを体に巻きつける。
 ベッドの上を見回したが、下着一枚見つからない。
「ふ、服」
「そのままでいろ。今は必要ない」
 言うが早いか、神父はリネンを取り上げ抱きすくめる。
 悲鳴を上げて暴れるが、がっちり抱き込まれると身動きどころか息さえもつまりそうだ。
「やめてよ。好きにできると思わ、わ、ないでよ」
 低い声を出したつもりだったが、失敗した。
 うわずって素っ頓狂もない高い声になる。
「どうした。何をあせっている」
「あ、あせってなんか、な、な、ない、ないわよ。ただ、ちょっと覚えていないんだけど……」
「覚えていない……か」
 神父の声が、一段と低く艶を帯びたようで杏珠は、恐ろしいほどの緊張で身体がこわばっていくのを感じた。
「な、何よ。放しなさいよ」
 抱き込まれたまま、抵抗するが神父は気にする様子もない。顔を近づけてくる。

 初めて見た時も思ったが、本当に奇麗な顔だ。
 端正な美貌とはこういうのを言うのだろう。
 しどけなくはだけたシャツから覗く素肌は、感動を覚えるほどに整っている。
 見事なほど鍛え上げられ肉体は、芸術的と言ってもよい。
 惜しむらくは胸にある傷だった。
 かなり古いものだろう。白くなった直線的な傷と縫った跡が無数にある。
 モデルのようだとも見えたが、そうではない。若い男にありがちな軽やかな明るい雰囲気が、彼には欠落していた。
 凝った血のような眸と同じく、どこか暗い影を宿して、そばにいる者さえも巻き込むような激しさをはらんでいる。
 銃弾の痕ではなさそうだ。まるで斬りつけられたかのような傷跡だった。
 まさかマフィア同士の抗争か。
 今まで映画の中でしか知らなかった世界が、切実に近づいている。
 映画に影響されたイタリア旅行だったが、“ローマの休日”ではなく“ゴットファーザ”では洒落にならない。
 マフィアはイタリア経済と社会に多大な影響力をおよぼしているという。
 あ、でも……“ゴッドファーザー PART III”は、ヴァチカンとマフィアのややこしい話じゃなかったっけ。
 確か現実にあった事件を元にしているとかなんとかって……あたし、生きて日本に帰られるの?

 近々と見据えられた眸の暗さに杏珠は、震え上がった。
 怖い……。
 やっぱりこの男、カタギじゃない。
 じわじわと湧き上がる恐怖に涙がこみ上げてきた。

「……杏珠」
 神父が優しく啄ばむように杏珠の頬にくちづけた。
 それさえも恐ろしく感じて、泣きながら頭かぶりを振る。
「泣かせたいわけではない。俺はお前が欲しいだけだ」
 低い声がかすれて、ほとんど囁くような聞き取れないほど、小さくなった。
 神父が触れる指先が、微かに震えているような気がする。
「身体だけではなく、心も……俺のそばに置いて離したくはない」
 そう言われるとは咽喉もとがきゅっと締め上げられるような、息苦しいような、
 やるせないというのだろうか。まるで恋のような、自分でも抑えの利かない感情が湧き起こる。

【テイレシアス】
ギリシア神話に登場するテーバイの予言者。
オウィディウス『転身物語』によると、彼は森で交尾中の蛇を杖で打ち女になった。7年後、ふたたび交尾中の蛇を打つと彼は男に戻ったという。両性の快楽を知っている人間。



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