──ヴァチカンの神父だ。

 顔の右半分にゆるく巻いた包帯が解けかかって、肩に落ちた。
 切れ上がったまなじりは威圧的で鋭く、暗い色をした眸には不敵な輝きが宿る。
 その視線に、心をつかみあげられ、精神を残らず吸い取られそうな錯覚を起こす。
 慌てて目をそらすと男は、杏珠の眦に唇を寄せた。
 身を硬くして目を閉じると、寝起きのせいでたまっていた涙が零れ落ちる。
 それを神父は舌を這わせて舐めとった。
 頬に触れる唇。ざらりとした舌の感触。
 のしかかられて神父の長い金髪が杏珠の上に落ち、素肌にまといついた。



「お前、酒に弱いな」
 響きのよい低い声が、正確な日本語を話していた。
 神父の大きな手が頬や鼻先、髪に触れる。
 決して乱暴ではない。
 彼のまとう仄かな香りのせいだろうか。
 わずかな苦味のある柑橘系の匂いと香木を思わせるオリエンタルな香りが鼻腔といわず、脳内、皮膚の深層部へ澄み渡るように広がる。
 どこか懐かしい。そんな気持ちにさせられる。
 懐かしい? どうして?
 悩ましくて途方にくれるような……もどかしい。もう少しで手が届きそうなのに、届かない。
 なんだろう。
 なんだろう。この感覚は……じれじれとした落ち着かない気分は。
 先ほどまでの恐怖や、嫌悪感とは、まったく違うものだ。




 ──酒って……弱いって、なんのこと?

 重く固まった頭の中で、酒という単語を繰り返した。
 だが、思考はそこからループして先に進まない。
 ヴァチカンへ行ったのは昨日のことだ。
 そこで隻眼の神父に会った。
 あの日は午前中がヴァチカン美術館観光で、午後からはフリーってツアーだったはず……。
 なんとかっていう有名な古い寺院を回ったけど、どこもあまり印象に残っていない。
 凶悪なまでに目つきの悪い神父のインパクトが強すぎて、何を見ても上の空だった。
 それから明日は日本に帰るわけで、今日は一日買い物をしようって曜子と沙織が言ってたんだっけ。
 二人の買い物に時間がかかって、スペイン広場で待っていたんだ。
 お婆さんにぶつかって噴水に落ちそうになったり、それから。

 ふいに大男に襲われた場面がフラッシュのように瞬いた。
 目の奥で強い閃光が走る
 身体の血が冷えていくのを感じた。
 あの時、神父が来てくれなかったら……。そう思うと今さらながら、震えが止まらない。
「大丈夫だ。深く息をしろ」
 ほとんど囁くような声音が、耳もとで聞こえた。
 その通りに深く呼吸をする。
「いい子だ。もう一度……そう、ゆっくり」



 頭の中の歯車が少しずつ、音をたてて動く。
 あの奇麗な神父と同じ声……まさか。この人は、神父でしょ?
 ありえない。でも、ありえない現実がここにある。
 神父の眼は、優しげとは言い難い。ただ“恐ろしい”という感覚にも、それぞれに意味があり、色が違うのだ。
 真っ黒に塗り潰して、忘れてしまいたいあの恐怖とは違う。
 もう二度と逢うことなんてないと思っていた。……でも、本心からそう思っていたんだろうか。
 また、思考が飛んでいる。現実からどんどん乖離していく。

 今、思い出すことは……そうだ。お酒。
 スペイン広場の古いバールで食前酒だっけ、そんなのを飲んだような気がする。
 軽い感じの甘いお酒だった。
 でも、そんなに飲んでいないつもりだったけど。
 なんだか神父にズケズケ言われて、……それで泣いたような気がする。
 何をあんなに感情的になっていたんだ。
 まさか、あれってアルコールのせい?
 いい歳をした大人の女が、大騒ぎして泣いて取り乱すなんて、恥ずかし過ぎる。
 あれ、ちょっと待て。それだけじゃない。
 思い出せ。他にもあった。
 ……確か。



 自らの醜態が脳内で蘇ってきた。
 やっぱり酔いがかなり回っていたのか。そうでも思わないとやりきれない。
 これでも、“きちんとした”あるいは、“真面目な”会社員として世間では通っている。
 会社での人間関係もうまくいっているし、与えられた仕事は正確にこなす。
 まさか、その自分が酔っ払って記憶を失くすなんて……信じられない。
 これまで他人の世話をことがあっても、自分がそうなるなんて夢にも思わなかった。
 なんてことだろう。とてもではないが、現実とは思えない。
 夢か。夢だといい。そうだ。二日酔いの見せた幻だ。





 二日酔いの頭痛や吐き気もない。
 むしろすっきりとして思考も平常に回復しつつある。
 だからこそ、やりきれない。
 裸で男と二人きりのベッドにいるのだから、夕べは酔いつぶれた後……さらに何かあったのは間違いないだろう。
 あんなキスをするぐらいだ。胸だけで済むはずがなさそうだが、幸か不幸か、さっぱり覚えてない。
 リネンをめくってみた。
 そんな馬鹿なことあるわけない……そう思っていたが、残念な現実がそこにあった。
 下着一枚身に着けていない。素っ裸の身体がある。
 見なかったことにして、もう一度、リネンを頭からかぶる。
 いや、これが虚しい現実逃避だとは理解しているつもりだ。でも、こんな状況をどうしたらいいのだろう。
 まさか、こんなことをしでかすとは……自分の人生においてそんなことが起こるなんて、想像もしなかった。
 正気の沙汰とも思えない。
 失恋をして自棄酒を飲んだことは過去に何度もあったが、記憶をなくしたことなどなかったのだ。



 このまま消えてなくなりたい。

 なくなれ。
 なくなってしまえ。
 消えてなくなれ……自分よ。



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