いい匂いがする。
 微かな、微かな匂い。
 まったりとした深みのある不思議な……お香かな。
 ちょっと違う。
 お香の匂いに、ちょっと苦味のある柑橘系の香りが混じっているような。
 爽やかなだけじゃなくてどこか、深みのある……懐かしい感じがする。
 たぶん知っている。なんだっけかな。この香り。
 レモン……違うな。
 もうちょっとピリッとしたスパイシーな感じ。

 ああ、そんなことより、もう起きなきゃ、
 今日は朝の七時にロビーに集合だっけ。
 こんな早いツアー止めときゃよかった。
 でも、変ね。携帯のアラームが鳴らない。
 頭がぼんやりしてる。
 まさか低血圧。
 うちの家系って、貧血とか低血圧とか多いんだわ。
 とにかく起きよう。明日には帰るんだから、実質、今日がイタリア最後の日なんだもの。
 本当に寝坊しちゃ大変だわ。











 目を開けると、いきなりごつい腕が視界に入った。
 なんだ。これ……?
 一瞬、曜子や沙織が自分のベッドに潜り込んできたのかと思った。でも、こんなに太いわけがない。
 腕枕にして寝ている。鉄みたいに硬い。カチコチ。
 自分の腕枕してた……?
 白いリネンの下から、自分の手を出してみると金色の糸が絡んだ。
 よく見れば、それはリネンの上に波のように、うねって広がっている。
 純度の高い黄金を溶かしたようだ。
 手を伸ばして触ってみると、糸にしては細い。
 糸というより、髪の毛。……髪……人間の?

 ここにいたって杏珠は、ようやく眼が覚めた。
 触っているものが人毛だと思うと、気味が悪くなって慌てて手を離す。
「う、うわっ!」
 体を起こしかけたとたん、強い力で押さえ込まれる。
「あ、あ……あわっ、あう……!」
 恐慌状態の中で、うわずった声しか出なかった。
 夢中でもがくが身動きもできない。



「騒ぐな」
 ぞっとするほど低い声が、すぐ耳元で聞こえた。
 悲鳴を上げるより先に、体を拘束される。
 まるで、冷たい鋼鉄が巻きついたようだ。
 徐々に思考が戻ってくると、それが男の腕だと気づく。
 杏珠は、今度こそ死に物狂いで暴れた。
 腕の力は、緩まずますます締め上げてくる。息がつまって、気が遠くなりそうだ。
「ひっ、ひっつ」
 しゃくり上げるような意味のない言葉が、口から漏れる。
「い……いやっ、いや!」
 素肌に直接、男の硬い腕や胸を感じる。
 頭の中は得体のしれぬ相手への恐怖しかない。
「放して、やっ!!」
「暴れるな、杏珠。頼むからおとなしくしてくれ、壊しそうだ」
 居丈高だった男の物言いが、まるで哀願するように低く囁く。
 それでも体はこわばり、恐ろしさにわななくのをどうしょうもない。
 これは夢なのか。



「ななななな……な、な……な」
 音をたてて血の気が引いていくのが判る。
 なんで、と言いたかったのだが舌がもつれて、うまく回らない。
 なぜ、どうして、こんな状態に自分があるのか。
 寝ぼけてふやけた頭を必死に、立て直そうとする。
 自分の部屋であるはずもない。見たこともない天井があった。
 寝かせられていたのは、巨大な天蓋付きの寝台の上らしい。
 柔らかで体の沈み込むような感覚は羽毛の中にいるようだ。
 白い清潔なリネン。天蓋の支えには絡まる蔓薔薇の彫刻がある。
 安手のモーテルに連れ込まれたわけではなさそうだった。帳が下ろされているためか、辺りは薄暗い。
 振り回す両腕は、たわいなく頭の上にねじ上げられる。男の腰や足がのしかかり、身動きもできない。
 重さと押さえつけられる痛みと恐怖に杏珠は、泣きながら首を左右に振る。もはや、それ以外に抵抗の手段がなかった。

「これ、おとなしくしろと言うのに」
 そう言いながら男は、杏珠の髪に手を触れてきた。
 強引に手足を押さえつける力とは、裏腹な優しいしぐさだ。
 壊れ物のように丁寧に扱われるのに、いっそ壊れてしまえと言わんばかりに圧迫する力は強い。
 どうしていいのか頭の中は、まだ混乱している。
「何も、とって喰おうというのではない」
 耳元に吹き込まれる低い声と吐息。
 ほのかな男の体臭に混じる、まったりとした深い香木のような不思議な匂い。
 人工的な香水の匂いではなかった。
 あるかなしかの微かな香りは、こんな切羽詰まった事態にあって、ひどく懐かしい気がする。
 びくつきながら顔を上げると、すぐ間近に紅い眸があった。
 血が凝ったような暗い色をしている。
 こんな色の目をした人間がいるのか。

 ……いや、いた。たったひとりだけ知っている。



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