荷車のうえに子牛が一頭、縄に縛られて横たわっている。
      子牛がうめくと農夫が言う。
      いったい誰が子牛であれとお前に命じたのか。
      お前だって鳥であることができたろうに。
      ひとびとは哀れな子牛を縛りあげ、そして引きずっていって殺す。
      翼を持つものなら空高く舞い上がり、誰の奴隷にもなりはしない。

アーロン・ツァイトリン/細見和之翻訳 『ドナドナ』










 室内は、岩穴のように暗かった。
 遮光カーテンが日差しだけではなく、窓の外の観光客で賑わうスペイン広場の喧騒さえも閉ざしている。
 ムラーノグラスの香炉から、細い煙が立ち昇り、部屋いっぱいに不思議な香りが漂っていた。

 テーブルの上には冷め切った料理が、手つかずのまま並んでいる。
「やれやれ、食前酒アペリティーヴォで、潰れたわけですか」
 アザゼルは食後酒ディジェスティーヴォをラッパ状に開いたグラスに注ぎながら言った。
 蒸留酒は、濃い琥珀色をしており、奥深い樽の強い匂いがある。
 グラスに鼻を近づけて、アザゼルは眉をしかめた。
「……香炉の匂いで、味が判りませんな」
「それなら鼻をつまんで飲め。ナルドの香は、わが子が安心する」
 わが子と呼ばれた娘は、彼の膝の上に頭をのせて小さな寝息を立てて眠っている。
 娘が身に着けていた小さな銀のペンダントも薄い上着、スカートもない。靴すら履いておらず、一糸まとわぬ姿のままうつぶせていた。
 ほっそりとした手足。裸の肩をおおう髪。白い背中。まるい小さな尻は、肉感的というより裸にされた無防備さが痛々しい。
 鼻の頭に薄く汗をかいている面差しは、子供のようにも見える。
 美しい主に抱かれる娘には、天性の麗質、気品、賢さ、そういったものとはまるで無縁のようだった。
 醜くもなければ、美しくもない。取り立てた美点も無ければ欠点も無い。


「あのような場所においておくのではなかった」
 イリアは、杏珠の頬を撫でた。
 日差しの強いスペイン広場で二時間も立っていたせいか、少し日に焼けて肌が赤くなっているが、殴られた痕は奇麗になくなっていた。あれほど腫れていたのが嘘のようだ。
 この娘の外見で褒められた点があったとすれば、茹でた卵を剥いたように、ぷるぷると弾力があって白い肌だろう。だが、それも若さの特権のようなものでしかない。
 彼女のそばにいる男の長い金髪や豪奢な美貌の前では、とりたてて目を惹くものではない。
 アザゼルは、こうして寝顔を見ていると、どこのウマの骨だろうという思いがぬぐいきれない。
 この娘のことをよく知っているはずなのに……。おそらくこの娘自身よりも。
 それでいながら、まるで身体の外側にあるかのような娘の剥き出しの魂がアザゼルを哀れませる。
 必要である以上に正直過ぎる愚かさは、もはや悪徳だ。
 本人は、それでも必死に隠しているつもりらしい。
 とうに成人しているはずだが、あまりに情緒が不安定過ぎる。
 よくこれで、今まで無事に生きてこられたものだ。よほど周囲の環境がよかったらしい。
 アザゼルは、娘の裸体から眼をそむけた。
「この世界は、因果律に組み込まれているはずです。それを乱しては……」

 イリアは、娘の鼻の頭に浮かんだ汗を指先でぬぐい、頬にかかる髪をすくいとって撫でてやった。
 決して他者には向けられることのない慈愛に満ちた眼差しは、この愚かで美しくもない娘にのみ注がれる。それが律を乱し、すべてを狂わせていく。
 膝の上の娘から眼を離さないまま、イリアは答えた。
「人の運命は、常に変転し複雑に絡み合うものだからな。それ以外の者がこちらから、踏み込めば、どうなるか……」
 娘の髪を梳くイリアの右の袖口から金色の糸のようなものが一本、また一本と伸び始め、やがてその数はクラゲの細い触手のように増えて広がる。

 金糸に似た触手は、繊毛運動をするように娘の肌を撫でさする。
 くすぐったいのだろうか。娘は目覚めないままに身をよじり、くうんと鼻を鳴らす。これは雛というより、仔犬だ。
 しだいに長く伸びながら花のように広がり、触手は娘の身体を包んでいった。
 その全身を包む触手は輝きながら、絡み付いていた。
 乾いた細い触手は、柔らかくまといつき娘の手足、首、胴に巻きつき包み込んでいく。
 髪と顔には常にイリアの手が触れており、もはや娘の全身はイリアと彼の右腕から伸びた触手によって、あますところなく覆い尽くされていた。
 うっすらと日焼けした痕や転んだ時にすりむいたらしい膝のわずかな擦り傷さえも、触手がゆっくりと広がりながら伸びていくと、何事もなかったかのようにもとの肌を取り戻していく。
 若い娘特有のみずみずしい肌膚は、薄い桜色をしている。

「いずれは、この身体も衰え腐敗して死臭を放ち、蠅や蛆虫に喰い荒らされる」
 イリアは、アザゼルに向かって話しているというより、独り言のように呟きながら乳房をつかんだ。
 寝椅子の上に押しつぶされていた乳房は、男の手にあまる。柔らかいが若さゆえの弾力があるのが見ていても判った。
 眠りを妨げられるのをいとうのか、身じろぎをする。男の手から逃れようと寝返りをうった。
 そのくせ、イリアの服をひっぱって甘えるように顔をうずめる。
 そのしぐさが稚い。身体の成長と心がともなわない思春期の少女のようだ。
「もがいて足掻きながらも生きていこうとするからこそ、ヒトにはその存在があるのだろうな」



 幼子をあやすように、あるいは情人を愛撫するように娘を抱くイリアに、アザゼルは首を振った。
「五億四千年前のカンブリア爆発から遡れば、ヒトの歴史などほんの瞬き一つもないほどです」
 触手は伸び縮みを繰り返しながら、杏珠の髪に絡み頬や唇、首筋に触れた。
 うねうねとした動きを本人が見たら気味悪がるであろうが、蛸の触腕のようなぬめりや冷たさはないはずだ。娘が起きる様子はない。
 丸い毬のような胸のふくらみに、触手が伸びる。
 薄紅色の先端を糸が巻くように絞りあげられると、娘はあえかな声を上げた。
 見ている間に蕾は固く尖る。
 小娘とはいえ、成人した女の身体だ。性的な刺激を施せば反応する。



 イリアは構うことなく、さらにその下の方へと触手を進める。
 細い腰に、大腿に金の糸は絡みつく。
 滑らかな象牙色の肌の上に髪と同じ色をした薄い茂みがある。うっすらと萌えるその奥へ触手は潜り、硬く閉じた足の間へとまといついた。
「……あぁ…ふぅ……っ…」
 はっきりとした声が、娘の唇から洩れる。
 アザゼルは、わずかに眉を顰めた。
 この状況でもし、娘の眼を覚ましてしまえば騒がれる。それは、面倒だった。
 娘は侵入者から逃れるように両方の腿をこすり合わせながら、夢うつつのままイリアにしがみつく。
 深い快楽を求めているのかと思えば、その表情には淫靡なものはない。
 まだ乳離れできない子のようだった。やはりこれは、まだ女とさえ呼べない。ほんの小娘なのだ。
 その様子を眺めながら、アザゼルはため息をついた。
「傷つけて泣かせておきながら、癒すのも慈しむのも御身おんみか」
 アザゼルが嫌味ったらしく言うと、イリアは鼻先で笑う。
 笑われて、己の言葉にアザゼル自身が驚いていた。

 いったい己は、何を言っているのだろうか。
 この世の生き物は、もとは土くれから生まれたものばかりだ。
 だから死ぬと土に還る。
 途切れることなく輪廻は、永劫に回り続ける。
 世界を創造したのは、目の前にいる男だ。
 知り尽くしている者にそのことを説く愚かさを感じながら、アザゼルはグラッパをあおる。
 癖の強い酒の匂いと、微かな女の匂いがナルドの芳香に混じった。
 甘松香ともよばれるナルドは、福音書やソロモンの雅歌にも謳われる。
 深い森にいるような不思議な香りが漂う。

 この娘は、結局のところ目覚めていないのだ。ヒトとして、いやそれ以前に“女”ですらない。
 それは、アザゼル自身がよく知るところである。
 あの白い肌、丸い乳房。細い腕や、熱い腿も……かつては、彼のすぐそばにあったものだ。
 手を伸ばせば届くはずだったのに、今は違う。

 あのころから娘は、自分の心の在り処を探していたのかもしれない。

【カンブリア爆発】
5億4千万年前からはじまるカンブリア紀にそれまで数十数種しかなかった生命は突如として爆発的な進化をおこした。
カンブリア爆発とは今日見られる生物の「門」が出そろった現象のこと。
「門」とは生物分類の階級の一つ。カンブリア爆発以降に進化した動物の門は苔虫動物門のみ。

【雅歌】
旧約聖書の一遍。男女の恋の歌。



inserted by FC2 system