「あたし、戻らなきゃ……友達が待ってるかもしれないし」
 思いついた言い訳は、我ながら陳腐なものだ。
 神父は、唇の端だけを吊り上げたいつもの冷たい笑い方をした。
 そんなふうに笑われると、やるせなく泣きたい思いになる。
 なぜ、この神父は自分にだけ、こんな意地の悪い笑い方をするのだろう。
 もしかしたら彼に好かれているのではないかと思った自分が、いかにも愚かに感じられて、いっそう辛くなった。
「待っているだと」
 杏珠の手からグラスを取り上げ、残りを飲み干すと神父は、ゆっくりとまるで獲物に狙いを定めるようにして、はすかいに見据えた。
 片方しかない暗い色をした眸は鋭く、見つめられているだけで呼吸が止まりそうになる。

「あんな場所に、たった一人でお前を置いていくような者が“友達”なのか」
「ち、違います。あたしがブランドのお店が苦手だから……それで外で待っていただけで……その」
「それはまた、友達甲斐が無いことだ。二時間も待たされて、まだ戻ってくる気配もないぞ」
 そう言いながら、神父は手を伸ばして杏珠の頬に触れる。とっさに身をそらして避けようとしたが、頭で考えているようには体は動かない。
 手の甲で頬を撫でられると、不思議に痛みが引くような気がした。
 薄い手袋を通して、彼の体温の低さを感じる。その冷たさが、やけに心地よかった。
「だって、買い物をしていたら時間なんて」
「馬鹿が。ここは日本ではないぞ。あんな目に遭ってなお、その友達とやらをかばうのか」
「だって、あんなことになるなんて……」
 杏珠が買い物をしていた店を出ようとした時には、沙織も曜子も引きとめた。それを無理やり出てきてしまったのは、自分のわがままだ。
 すぐ戻ってくるからと約束したのに、いつまでも外でウロウロしていたのも自分の落ち度だ。
 だが、そうなったきっかけはなんだったのか。
 冷静に考えてみれば、この神父が安全な存在だとは言い切れない。
 下半身を露出させて、杏珠を襲った男たちとの違いは、どれほどあるのかもまだ判らないのだ。
 もしかしたら彼らは、この神父が杏珠にした行為をどこから見ていたのかもしれない。
 ならば仕向けたのは、間違いなくこの神父だ。
「……そもそも、貴方がいちばんの原因じゃないんですか」
 もごもごと言ったことに、すぐに後悔した。
 思い出しただけで、恥ずかしさで頭が爆発しそうになる。
 路上でキスどころか、それ以上のこともされたのだ。

「俺が手を出さずとも、お前みたいな世間知らずを浚うのは簡単だろう」
 神父の口ぶりは、ほとんど面白がっているようでもある。
 それでいて、頬を撫でる手は思いがけないほど優しい。
 言われている通り、自分が本物の馬鹿に思えて、ますます情けなくなってきた。
「まだイタリア人ならよかったが、あれはモロッコ人だ。荒っぽいことをする」
「モロッコ……?」
 杏珠の知らない国の名前だった。
「イスラムアフリカの国だ。ヨーロッパとは目と鼻の先にある」
「それでアラーだったんだ……」
「お前は余計なことばかり考えるな。アラブ地域ではヤハウェを“アッラーフ”と呼称している。呼び名が変わるだけだ」
 長い指先が、頬をするすると触れ撫で上げる。
 そうされているだけで、脈うつような痛みというのか熱さが薄紙を剥がすように治まっていく。気のせいなどではない。……たぶん。
 魂を温めるような深みのある香りが、シャツの袖口から漂う。今、この人は僧衣を着ているわけでもないのに。

 ふいに今の自分を思い出して、彼の指先から逃れるようにうつむいた。
 殴られて腫れあがった顔、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの……。
 それでも神父の指先は、追いかけるように杏珠の頬に触れる。
 シャツとスカートの泥は払っても汚れたものはどうしようもない。シャツの下はノーブラだ。
 はおったトップスで、かろうじて透ける心配はないが、どうにも心もとない。
 膝上のスカートの下にストッキングはない。破けてボロボロになっていたので、脱いでポケットの中だ。かろうじてショーツは無事だった。
 本当に危ういところだったのだ。
 暴漢に襲われたショックは大きすぎる。まだ、気持ちの整理がつかないままでいられるのは、かえって幸運なのかもしれない。
 ゆっくりと落ち着いた時には、あの恐怖が蘇ってしまうのかもしれない。

「なんで……」
 深く呼吸をして、吐き出す息とともに言った。
「なんで……すぐに助けに来てくれなかったんですか」
 心の底で澱のように沈み込んだ言葉だった。
 でも、助けてくれたのは、この神父だ。
 いくらお礼を言っても足りないくらいなのは、解っている。まだ杏珠は、ひとことの謝礼を述べていない。
 言えないのは、噴水の前で神父がしたあの人前でのくちづけや、その後の恥ずかしい行為によるものだった。
 それとこれとは、別とすることだ。
 でも、言えない。言いたくない。
 もしかしたら、本当にわずかなりと愛情をもってくれているのか。
 知らないのは、自分だけでもしかしたら、以前にどこかで見初められていたのだとしたら?
 違う。そんなはずはない。自分がよく解っている。
 小さいころからよく言われた。
 可愛いね――決して奇麗ではない。愛嬌があるとか、そんな遠回しな表現。美人ではないのは、よく理解している。
 そもそも、それだけ美人なら元カレを妹に……いや、よそう。ますます自分がみじめになってくる。
 ふいに、頬を撫でていた手が動きを止める。
「お前は、自分の意志で俺から逃げた。だから、追わなかった」
 突然、うってかわった神父の言葉の冷たさに杏珠は、震えあがった。
 この期に及んで、馬鹿な期待を見通されたような気がしたのだ。
 自分の少女趣味な考えがいかにも幼稚で恥ずかしくなってきた。

「嫌なら出ていくがいい。そのドアは開いている」
 そう言いながら神父は、杏珠の頬をつかんで引き寄せる。
 首筋に歯をたてるようにしてくちづけられる。
 唇は冷たいのに舌は燃えるように熱い。ざらりとした舌の感触に身体の芯が痺れるようだ。
 暴漢に襲われた時に殴られた頬の内側の痛みはもうなかった。
 まるで牙でもあるかのように犬歯が、暴漢に襲われたとき自分でかみ切ろうとした舌先に当たる。
 自分は、今、何をしようとしているのだろう。
 何を望んでいるのだろう。
 誰かに熱烈に愛されたい。
 まるで物語のように……。ほかの誰でもない。このあたしだけを欲しいと言ってほしい。
 でも、この神父が自分に求めているものは、たぶん違う。



 結局のところ、彼もあのモロッコ人も“女の身体”が目的なのだ。
 今ここにいる“あたし自身”が欲しいのではなく、性欲処理のための“女”が必要なだけだ。
 観光名所に映画のようなロマンスなんて、ありはしない。
 観光スポットでドラマチックに声をかけてくる男は危ない、というのはガイドブックにもよく載っている。
 それでも杏珠の中で、見知らぬ神父に対する依存心のようなものが消えない。
 背筋をまっすぐに伸ばして、下腹に力を入れた。
「あたし、あたしは……」
 声をあげそうになるのを、神父がのしかかるようにして押さえつけた。
「奴らの目的の一つは、これもそうだな」
 どこから取り出したのか、彼の手には財布があった。
 マシュマロピンクの長財布。銀のハートのチャームがついている。
 まさか……と思ったが、今の体勢ではバックの中を確認することもできない。
「バルカッチャの噴水で老婆がぶつかってきただろう。あのときに掏られたお前の財布だ」
「そんな、あのお婆さんが」
「年寄りだろうと子供だろうと、観光地には掏りがいるのは常識だ」
 あんな腰の曲がったお婆さんが観光客相手に掏りをしている。
 その現実とまったく気づきもしなかった自分の甘さに、全身から力が抜けていくようだった。
「そんな場所へ友達を置き去りにしたわけだ。たいした友情だな。本当に彼女らはお前の友達なのか」
「ほっといてください。あなたに関係ない!!」

 杏珠は、眉根を寄せて下唇の内側を前歯で噛んだ。
「関係ない? そうだな。俺はこれまでのお前の人生との関わりを持たずにいた。だからこそ、見えるものもある」
「何が見えるって言うの」
 自分の声がひどい金切り声になっているのが判る。
「本当のあたしのことなんて、あなたは、知らないはずでしょ」
 落ち着かなきゃ。そう思うのに感情がついていかない。
 冷静になってちゃんと考えなきゃいけないのに、考えることを頭が放棄している。
 自分でも手の負えない苛々とした感情だけが暴走する。

「他人に疎まれるのが怖い。他人の顔色ばかり窺って、必死でいい子でいる……それなのに、いや、だからこそ」
 うっすらと神父は笑う。
 暗い眸の奥に妖しいほど甘い光が宿る。
「……誰も本当の気持ちは判ってくれない」
 長い金の髪がこぼれ落ち、皮肉げに動く唇に触れる。
「いつも笑っているのは、独りになりたくないから」

 神父の言うことは、多分……当たっている。
 でも、それを認めると自分が惨めな負け犬になってしまう。
 本気でこの男は、自分の頭の中を覗いているのではないだろうか。
 もしそうなら、一秒たりとこの場所にいたくはない。
 目の前の広い胸を両手で突っ張って、押しのけようとしてもまるで動かなかった。
「本気で誰かを愛したこともなければ、愛されたこともない。お前が逃げるからだ。波風を避けて思い切ったことができない」
 耳をふさいでしまいたい。
 頭蓋骨の裏で血が逆流しているのが、はっきりと判る。
 もう、言わないでよ……そう叫びたいのに、喉が干からびて何も言う事ができない。
 鼻の奥がつん熱くなって、涙がこみ上げてくる。ここで泣いてしまっては相手の言うことを肯定することになってしまう。
 杏珠は必死で泣くのを耐えた。
 両手を拳にして握り締める。
 追い討ちをかけるようにして、神父は言葉を続ける。
「逃げて、お前の中に何が残った」



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