スペイン広場に面したバールに杏珠は、神父に抱きかかえられるようにして入った。
 頭の中でドナドナの物悲しいメロディーが鳴っている。
 気分は市場に売られていく仔牛そのものだ。
 このままついて行っていいものか、どうか。いや、迷うまでもない。
 外国でなくても見知らぬ人間について行ってはいけないというのは、小さな子供でも知っている。
 それでも杏珠には、拒むことができなかった。
 暴漢に襲われて、ひどい恰好をしている。仕方ないのだ。
 服は、血と泥でドロドロになってしまっているし、ストッキングも下着もボロ同然だった。
 こんな恰好じゃホテルにも戻れない。
 ホテルどころか、怖くて、もう一人ではどこにも行けない。一歩も動けない。
 だから、今は神父に頼るほかないのだ。
 そうやって、頭の中でひたすら言い訳ばかりを考えている。
 導かれるままに、自分の足で歩いていた。
 今頃になって殴られた頬が痛んできた。じくじくとした痛みと熱がこもっている。
 歯医者で麻酔をされたような感じだが、おそらくそうとうに腫れあがっているのだろう。



 立ち飲みのできる飲食店をバールというそうだ。
 イタリアでは、あちらこちらで立ち飲みの小さな店を見かける。
 神父に連れられたのは、由緒ありげな古い大きな店であった。
 年配のイタリア人男性で賑わうバールに足を踏み入れると、エスプレッソの匂いが充満している。
 エスプレッソマシーンから、コーヒーの抽出されるプシューっという圧縮音。
 カウンターに寄りかかり小さなカップを片手に話に夢中になっている中年のイタリア人男性。旅慣れたふうな旅行者らしき姿もあった。
 でも、一般の観光客には、敷居が高い。きっと一人だったら入れないだろう。
 今は、ひどく喉が渇いて冷たいものが欲しかったし、どこかで休みたかった。
 もしかしたら、神父はそんな杏珠の気持ちを読んでいるのかもしれない。
 彼の言動は、常に杏珠の気持ちを先読みしている。まるで頭の中をそのまま覗かれているようだ。
 ヴァチカンでも、そうだった。噴水でも……偶然なのか。
 でも、それならどうして、あんなになるまで助けに来てくれなかったんだろう。
 まさか、あたしが呼ぶまで、動かないつもりだったの?



 店内は深みのある赤を基調とした落ち着いた雰囲気で壁には、金の額縁に入った風景画が数多く掛けられていた。狭いスペースで客たちがエスプレッソを立ち飲みしている。
 カウンターにいたバリスタやウエイターたちが、神父に気づくと丁寧な挨拶をした。
 カタコトの日本語でウエイターが杏珠にも声をかけてくる。
 泥だらけの服を見て、どこかで転んだとでも思ってくれただろうか。不安と恥ずかしさで杏珠は、神父にしがみつくように寄り添った。
 バールといってもその店は、カウンターだけではないようだ。
 店の奥には小さく区切られた部屋があり、外国からの観光客はたいていテーブルのある席についていた。
 観光客といっても、杏珠のようないわゆる“お上りさん”はいない。団体旅行の観光客がはいれるバールは、意外と少ないのだ。
 テーブル席へ行くのかと思ったら、ウエイターが特別席リゼルヴァートへ案内してくれると言う。
 さらに奥へ進むと、大きな両扉のある部屋に通された。
 造りつけの暖炉やピアノ、年代を感じさせる古い家具などが置いてあり、大きなソファもある。
 バールというより、まるで個人宅の応接間のような造りに少し戸惑いながらも杏珠は、勧められるままソファに腰を下ろす。
 注文もしていないのにテーブルの上には、すでに料理や焼き菓子が並べられていた。
 よく冷やされて霜のついたグラスとワインクーラーに入った瓶もある。
 大きなオーク材の扉が閉められると、スペイン広場の喧騒を忘れてしまいそうなほど静かになった。



 不気味なほど静まり返った室内で杏珠は、身を硬くする。
 肩を抱かれて促されるままにソファへ腰を下ろす。
 神父は、向かいの席ではなく隣へ座った。
 近い。近すぎる……。顔が引きつりそうになった。
 きまりの悪い思いに杏珠は、顔を伏せる。ふいにひやりとした感触が頬にきた。
 濡れたタオルで神父は、痛む場所を冷やすようにして押し当てる。
 しばらくそうしてから今度は、杏珠の頬、額、鼻の頭、顎、首まで、丹念に拭う。
「じ、自分でできます……」
 杏珠の言葉を神父は、聞き入れなかった。
 恥ずかしいとは思いながらも、それ以上の拒絶できない。
 いや、本心を言うと、このまま甘えていたかった。
 優しくされることに慣れていないだけに、まるで羽毛に包まれるような安心感に少し泣きそうになる。
 顔が終わると、手の甲、掌、腕。さらに膝や、ふくらはぎまで何枚ものタオルを取り換えながら拭きあげていく。さすがにスカートの中までは、手をつっこんではこなかった。
 膝頭や脛のあたりに、わずかな擦り傷を見つけると、ボールに張った水で洗う。
 そうしているときでも神父は、手袋を外さない。
 布越しにその手の冷たさを感じる。あの騒ぎの中でも真っ白な手袋は、まったく汚れていなかった。



「喉が渇いただろう」
 そう言いながら神父は、テーブルの上のワインボトルに手を伸ばした。ボトルの水滴をナフキンで拭いてからグラスに注ぐ。
 細いフルートグラスの中に液体が満たされる。神父は、グラスを取り上げ杏珠の手に握らせた。
 冷たくしたグラスに口をつけると、爽やかなマスカットの香りが広がる。甘くほのかな酸味のせいか、頬の裏がぴりぴりと痛む。こんなときでなければもっと美味しかったのかもしれない。
 それでも、一息にグラスの液体を飲み干してしまった。
 神父は、同じ飲み物をグラスに注いでくれる。
 ジュースなどではないだろう。喉越しはよいが、すきっ腹に染み渡るような熱さが後からくる。
 アルコールのせいだろうか。殴られた場所に脈をうつような鈍い痛みが加わる。
 空になったグラスに微かに粟立つ透明の液体が注がれ、取り分けた料理を差し出された。
 パスタ。肉料理に揚げ物……これは何かの花をそのままの形でから揚げにしたみたいな代物だ。
 グラスを持ったまま出された皿に手を伸ばすこともなく杏珠は、うつむいてしまった。
 考えなければならないことがあるはずなのに、頭の中が混乱してまとまらない。
 今、自分がどこにいるのか。
 このヴァチカンで出逢った神父は誰なのか。
 いわゆる恋愛映画以外で、ロマンチックな状況はあり得るはずがない。それならもっと現実的なことを考えるべきだ。

「どうして……ですか」
 聞きたいことは山のようにあるのに、うまく言葉にできない。
「これはローマ産のカルチョーフォを丸揚げしたもので、今が旬だ。味は日本の百合根に似ている。お前の国ではあまり使われない野菜だったな」
 神父は、杏珠の問いかけには答えずに、料理の話を始めた。
「こちらはローマ風仔牛のソテーサルティンボッカ・アラ・ロマーナ」
 杏珠はうつむいたまま、首を横に振った。
 空腹ではあったが、何かを食べられる状況ではない。
 料理より、頬を冷やす氷が欲しいところだ。そもそもこの状況でこの料理は変だろう。もてなしているつもりなのかもしれないが、痛くて食べられるはずがない。
「まるで屠殺寸前の仔牛だな。何もお前をソテーにして喰うとは言っておらんが」
 杏珠が皿を受け取らないので神父は、テーブルに戻した。

「まだ仔牛の歌が気になるのか」
 笑いを含んだ声がそう言う。
  “仔牛の歌”とは、なんのことだろう。
 狭くはないはずのソファの上で少しずつ杏珠は、追い詰められていく。ソファの肘掛につかまりながら、身体を反らしていた。
 この状況って、まさか口説こうとかしているわけ?
 それも食べ物で?
 嘘だ。絶対にあり得ない。
 でも、もしかしたら……無鉄砲な期待が、自分の中から常識を忘れさせそうになる。
 頭の中が、同じところをぐるぐると回り、いつまでも真実が見えない。

【ドナドナ】
イディッシュ語(東方ユダヤの言葉)で書かれた歌曲。
【カルチョーフォ】
アーティチョークのこと。和名は朝鮮アザミ。
大きなツボミの中心部にある柔らかいガクと花托を食用にする。フランスやイタリアではとくに好まれ、春から初夏にかけてが旬。
藍紫の花が咲く。



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