【一部、暴力的な描写があります】

 血管を浮かせた赤黒いグロテスクなものが、目の前にあった。恐ろしく生臭い。吐き気がした。
 ゴリラの見かけどおり、およそ人間のものとは思いもつかぬほど気味が悪い奇怪なものが、頬に押しつけられる。
 ぞっとして、顔をそむけるものの先から滲みだすぬめつくものを塗りたくられた。
 おぞましさに狂ったように暴れた。もがいているつもりなのに、不自然な方向へ捩じりあげられた腕が痺れて動けない。
 後ろからは、太ったネズミ男が腰を抱え上げる。下着は膝まで降ろされ、むき出しの尻たぶを押し広げられた。
 これから、自分に何が起きようとしているのか。考えることを頭が拒否している。
 恐ろしさに、悲鳴をあげることもできない。
 口を開ければ、あの汚いものをぶち込まれてしまうからだ。
 このまま舌を噛んで死んでしまえたら……そう思って、強く舌を噛み続けると、わずかに血の味が滲み出てくる。

 ふいに、ミシッと奇妙な音がした。
 鶏を潰したような甲高い声が上がる。
 それが凌辱者のものであることが、すぐには判らなかった。
 肥満したネズミ男の高い声は、長々と暗い路地に響く。
 押さえつけられていた腕が緩んだ。
 逃げなければ!
 そう判っているのに立ち上がれない。這いつくばったまま、腰が抜けてしまっている。
 やがて、石畳にぬるぬるとしたものが流れてきた。
 それが膝を濡らしたときに、ようやく血なのだと判った。自分のものではない悲鳴がずっと聞こえている。後ろのネズミ男のものだ。

「マーブギーツシュ ルギードゥ」
 腹に響くような低い声は、笑ってさえいるかのように聞こえた。
 暗い路地に、金色の髪が輝いて見える。まるで天使の後光のようだ。
 ぼやけそうになった視界に、ようやくその光の影が神父であることに気づく。
 自分で呼びながらも、彼が来てくれるとは本気で信じてはいなかった。

 神父は、杏珠の腰をつかんでいたネズミ男の腕を、先ほど杏珠がされたのとまったく同じようなやり方で捻り上げた。
 ただ、腕を捕えられているだけにしては、恐ろしいほどの声で叫んでいる。
 くすんだ茶色の長衣が、薄暗い中でも判るほど鮮やかな赤に染まっていた。
 杏珠の口を犯そうとしていたゴリラ男は、仲間の様子を見ても怯むことはない。
 むしろ神父の長髪やその奇麗な顔を見て、薄ら笑いを浮かべる。
 神父は、長身ではあったが、相手のほうがさらに横幅も大きかった。
 ひどく聞き苦しい声でがなりたてながら、神父の腕をつかもうとする。
 杏珠は、悲鳴をあげた。
 誰か助けを、警察を呼ばなくては!
 神父は、一人きりだ。自分より大きなゴリラかプロレスラーのような男をどうするつもりなのか。
 下半身をむき出しにした男は、もはや杏珠など見向きもせずに、神父へと欲望の矛先を変えたらしい。

 ゴリラの顔が、いやらしく歪む。笑っているらしい。
 いくら神父でも、このゴリラ男を相手にするのは無理だ。
 痺れる手足を必死に動かしながら杏珠は、神父と自分の逃げる手段を探す。
 立ち上がり、神父に駆け寄ろうとして、足がもつれた。
 地面の血だまりに足をとられる。
 杏珠の動きに、神父が気を取られたとき、大男は大きく手を振りかざした。
 殴られたときの衝撃を思い出して、杏珠の身体が硬直する。
 思わず眼を閉じた。

「大丈夫だ」
 耳もとで囁かれる声と同時に、ごとんと、何か重いものが落ちたらしい音がした。
 男の絶叫に、しゅうしゅうという奇妙な空気が洩れるような音が重なる。
 血の臭いがいっそう濃くなった。
 何が起こったのか判らない。
 身体の震えが止まらなかった。本当にもう大丈夫なのだろうか。
 ひざまずいた杏珠に手が差し伸べられる。
 神父の手は、硬く冷たい。その感触はまるで金属だ。
 身の安全は確保されているのかも、判らない状況で涙が溢れてくる。



 ゴリラ男が唸り声をあげている。
 唸る声は、まるで呪文のようだ。
「アッラー。アッラーフ・アクバル」
「アッラーフ・アクバル」
「アッラー」
 もうひとりのねずみ男も同じだった。もはや悲鳴を上げることはやめてしまったようだ。
 杏珠からは見えない傷口から血を流しながら、その場に座り込んでに同じ言葉をつぶやいている。
 魂を抜かれたようなありさまだった。

「怯えることはない。ただのモロッコ人ガイドだ」
 淡々とした神父の声。今の杏珠の姿を見ても、そう言うのだろうか。
 まくり上げられたシャツとスカートを下ろした。ストッキングは破かれてドロドロになっていたが、ショーツは膝のあたりで引っかかっている。ブラはむしりとられて、どこに行ったのか判らない。
 本当にギリギリのところで助けられたのだということに、今さらながら気がついた。
 無事だったとは言い難い。震えが止まらなかった。
 それでも両手を伸ばしても回りきらぬほどの広い背が、自分を守ってくれるような気がして緊張の糸が切れたように感じる。
 杏珠は、神父の身体にしがみついたまま、声をあげて子供のように泣きじゃくった。
 涙は、とまらなかった。身体中の水分がすべて涙で流しだされてしまいそうなほど泣いていた。
 その間ずっと杏珠は、硬い腕に抱きしめられていた。
 僧服を着ていたときと同じあの不思議な香り。
 神秘的でセンシュアルな……。まるで身体ごと心も包み込まれているような安らぎを感じる匂いだった。
 激しく鼓動する心臓の音が、呼吸が、ゆっくりと規則的なものに変わっていく。

マーブギーツシュ・ルギードゥ(ma bghitsh 'lgide)  モロッコ語。ガイドは不要の意味。

アッラーフ・アクバル(Allah akbar)  イスラーム教徒が頻繁に唱える決まり文句。



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