【一部、暴力的な描写があります】

「スマホリヤ!」
 突然、大きな声が聞こえた。
 杏珠は、壁に背中を押し付けたままだ。外国人の声を気にする余裕もなかった。
 薄汚れた壁のせいで、服が汚れることにも気が回らないほど疲労困憊している。日頃の運動不足がこんなところで、たたるなんて。
 まるで舌をだしてハアハアいっている犬みたいだ。
 噴きあがった汗が気持ち悪い。ハンカチを出そうとしてバックに手をかけたとたんいきなり、二の腕をつかまれる。
 ぎょっとして、振り返るとでっぷりと太った男がいた。
 アラブ系の大きな体躯の中年男だ。黒々とした髪に口髭を蓄えている。
 中東でよく見るたっぷりとした厚地の長衣。くすんだ茶色でフードがあるせいかネズミ男のようにも見えた。
 先ほどの野太い声は、このネズミ男のものらしい。
 まさか自分に向かって言われたのだとは思わなかった。
 なおも早口で何か喋りまくっているが、よく判らない。
 ただの物売りかもしれないと思った。
 毅然とした態度で、はっきりと断ればいい。バックを掏られたりしないようにしっかりと抱えた。
 ただ、今の杏珠の足許はかなりふらついている。
 イタリア語でも英語でもない言葉で、まくし立てられると怖くなってきた。
 必死で首を振りながら拒絶のしぐさをするが伝わっているのかいないのか、相手はずうずうしく杏珠の腕を引き寄せようとする。
「やめて、触らないでよ」
 ネズミ男を払い避けようと、力任せに腕を振り上げると、その手もつかまれてしまう。
 ただの物売りや掏りとは違う。
 はっきり拒絶すれば、すぐにあきらめて次に行く筈だ。
 強盗かもしれない。
 そう思うと、今さらながら、背筋に冷たいものが走った。

「何するのよ。誰か、誰か来てっ!」
 大声をあげると、背後からまた別の男が現れた。
 似たような縞模様の長衣と、濃い髭が顔全体をおおっている。真っ黒でゴリラのようないかつい大男だ。
 どんぐりのような眼が杏珠をじろりと見おろし今度は、杏珠の腰に手を回してきた。
 あわてて、逃れようともがくが、まるで万力で締め上げられているようで、びくともしない。
「放して、いやっ!」
 相手が二人になったことで杏珠は、恐慌状態に陥った。
 ほとんど泣き叫びながら暴れると、いきなり張り手がきた。目の中で火花が散る。
 頬が火のついたように熱くなった。
 ろくな抵抗もできずに、腰が抜けてしまいそうになる。

 酒と煙草。それにむせ返るような汗と脂の臭い。
 あきらかに、あの神父とは違う。
 もしかしたら、神父の仲間ではないのかと思ったが、それは杏珠の誤解だった。
 ヴァチカンの神父にちょっとかまわれたくらいで、いい気になっていたせいだ。
 安全な日本にいるような浮かれた気分でいたから、犯罪に巻き込まれようとしている。
 今度こそ、貞操はおろか命すらも危うい。
 激しい後悔が頭の中をぐるぐるとまわる。混乱してどうすればいいのか、冷静な判断がつかない。

 つかまれた腕は、骨が折れそうなほど捻り上げられる。
 大声で助けを求めた。喉も裂けそうなほど、叫ぶのに助けはなかった。
 少し路地に入っただけで、すぐ近くのスペイン広場には観光客も警官も大勢いるはずなのに誰も来てくれない。
 杏珠は「ノー」を繰り返したが、男たちは顔を近づけながら下卑た笑いを漏らすだけだ。
 ひどい口臭に鼻が曲がりそうになる。
 男たちは杏珠を囲み逃げ場を失わせておいて、さらに路地の奥に連れ込もうとしているらしい。
 昨日までは他人事だと思っていた。自分だけはそんなヘマはしないと自惚れていた。
 信じがたい現実が、自分の身に起きている。こんなことがあるのか。
 バックを奪われた。
 抵抗すると、また殴られる。口の中が切れたらしい。血の味が広がる。
 考える暇もない。立て続けに頬を張られる。
 脳震盪を起こしたみたいに意識が飛びそうになった。痛みを感じない。感覚が麻痺してしまったかのようだ。
 岩みたいなごつごつする腕に押さえつけられ、服の裾がたくしあげられる。
 金品だけを奪われるだけでは済まないのだと、ようやく気がついた。下着がむしりとられる。
 場所など選ばずに、彼らは自分たちの欲求を満たそうとしているのだ。
 嫌悪感が吐き気になる。
 乳房を痛いほどつかまれ、ストッキングが引き裂かれる。
「いや、いやだぁ!!!」
 もがいて暴れると髪をつかまれて引っ張りあげられる。根こそぎ髪を抜かれそうだ。痛さと恐怖で涙が止まらない。

 今さらながら路地裏に逃げ込んだ自分の浅はかさを呪った。
 殴られた頬が熱い。石畳に押さえつけられ、ろくな抵抗もできないままに腹部を蹴られて、一瞬、呼吸が止まる。
 怖い。怖い。
 殺されるよりも、いっそう恐ろしい。
「助けて、誰か。し、神父」
 夢中で名前も知らぬ神父を呼んだ。
「神父っ。司祭っ、誰か、来てよぉおっ!!」
 もはや他に頼るすべもない。藁をもつかむ思いだった。

スマホリヤ(smeh liya)  人を呼び止める時や、ちょっとぶつかってしまった時などに使うモロッコ語。



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