そんなことを考えていると、いきなり胸の先端に強い刺激が走った。
 思わず杏珠は、くちづけられまま呻いた。
 爪の先で強く弾かれたらしい。まるで直接触られているみたいだ。
 身体が自分の意思に反して、跳ね上がる。
 ふいに唇が離れ、かすれた低い声が耳もとで聞こえた。
「お前は、よけいなことを考えすぎる」
 喘ぐような息をついて、ようやく杏珠は我に返ることができた。
 いつの間にか、はおっていたパーカーはおろか下着の中に男の手が突っ込まれている。
 あせって自分の胸をかばおうとしたが、バランスを崩して後ろの噴水に転がり落ちそうになった。
「馬鹿が」
 唇の端だけを吊り上げるようにして笑って、彼は杏珠を抱きかかえた。
 相変わらず右手は杏珠の胸をつかんでいる。
 いくらイタリアでも衆人環視の中ブラジャーに手を突っ込む男はいない。

「やめて……いや」
 いやだと言いながら、本気でそう思っているんだろうか。
 触れられた場所から甘い痺れが走って、まるで電流でも流されたみたいにびくびくと体が震えた。
 口と体が別の反応をしている。安手のポルノか、レディコミじゃないか。
 杏珠は、ほとんど泣きそうになっていた。

「なぜだ」
 神父は、怪訝な顔で杏珠を覗き込んでくる。
 あの暗く凍えるような隻眼で見つめられると目眩がした。息が苦しい。
「お前は先ほど、腹より胸の方がよいと」
 彼の言葉で、頭に昇った血の気が一気に垂直落下する。まるで遊園地のフリーフォールだ。
 嘘。それって、さっき頭の中で思っていたことで……まさか、口に出して言っていたんじゃ!

「な、なんでもいいから、手を放して」
「放すと落ちるぞ」
 神父は眼を細めて言った。
 そうすると長い睫が影を落として、あの怖いほどの冷たい目許が優しく見える。
「そっちじゃなくて」
 怒鳴りそうになって、杏珠は声を詰まらせた。
「胸……っ!」
「ここか」
「のぉなぁあぁっ!!」
 信じがたいような、調子外れで間抜けな声が出た。
「色気のない声を出すな」
 さらに神父が手を動かす。
 揉みしだくようにして、先端を指の間に挟みこむ。
 直に触られている。たくしあがったシャツの下にむき出しにされた自分の胸が見えた。
 日に焼けていない胸と、先端がいやらしいほど赤くそそり勃っている。そこを転がすように指先で摘ままれた。
 今度は、鼻に抜けるような甘ったれた声が漏れる。
 その声が自分のものだと気がついて愕然とした。同時に猛烈な怒りが、脳天まで突き抜ける。
 何かが自分の中で、ぷつんと音を立てて切れた。

「止めって、言ったわよっ!」
 甲高い杏珠の声に、周囲の人々が一斉に二人を振り返る。
 もともとこの神父は人目を惹くほどの美貌だ。黙って立っているだけでも通りすがりの人が振り返っていく。
 それがこんなチンケな日本人に手を出しているとあれば、他人の好奇心をそそらないはずがない。
 泣き喚きたい気分だったが、杏珠は奥歯を噛み締めることで、なんとか耐えた。
 相手と距離を置くために、両手をつっぱりながら足場を確保する。
 後ろに下がることはできないので、蟹のように横ばいに足を動かす。

「いっ、い……いい加減にしないと、警察呼ぶわよ」
 下から睨みつけてやると、神父は吼えるように笑い出した。
 何がそんなにおかしいのか。
 いつまでも、笑い続けている。
 今すぐにでも、この男を蹴飛ばしてバルカッチャの噴水の中に落としてやったら、どんなにすっきりするだろう。



 神父は、さもおかしげに笑っている。
 少し意外な気がした。声をあげてこの男が笑うことなどないと思っていたからだ。
 たくし上げられた服を直し、すばやく横ばいに彼の背後へと回った。
 そのまま後ろから蹴飛ばしてやろうかとも思ったが、今は逃げる方が先だ。
 友人たちは、いっこうに帰ってこない。まずはスペイン広場の雑踏から抜け出すべきだ。
 杏珠は、人気の少ない路地裏を探すと、そこへ向かって走った。
 石畳を踏み、人ごみをよけながら走る。
 薔薇売り、革細工の露天商。似顔絵かき。ミサンガを売るジプシー。さまざまな国からの観光客たち。
 じりじりと照りつける日差し。コーヒーの独特の香り。それよりもさらに鼻につく動物の皮の臭い。
 大勢の人の熱気。
 わーんと蜂の羽音のような耳鳴りがする。
 表通りにあった高級そうな店は、もう一軒もない。
 狭い破れかけた舗道。そこに散らかったゴミ。

 あの大きな手が伸びて、今にも捕まえられるかもしれない。
 蟻地獄の巣から逃れるのは、今だけしかないのだ。なだれ落ちる砂に呑み込まれる前に走るしかない。
 足がもつれそうになるのを、かろうじて態勢を立て直す。
 何度も人にぶつかりながら、夢中で足を動かす。わき腹がきりきりと痛み、汗が目に流れ込む。
 行き交う人々が何事かと振り返り、左右に道を開ける。
 息が続かず、走っているつもりなのに足がよろつく。
 マラソンは苦手だが、短距離はけっこう早かったはずだ。それでも学生のころからのブランクは長い。全力疾走したのも久しぶりだった。
 小路に入り込み、右へ、左へ曲がる。まるで迷路のようだ。



 狭い路地の壁によりかかり、荒い呼吸を整える。
 神父が後を追いかけてくる気配がない。
 振り切ったという感じはしなかった。
 どうやら、追いかけもしなかったようだ。
 走って追いかけてくるだけの値打ちもないということらしい。
 神父から逃げられたのなら、こんなところ長居は無用だ。早く人通りの多い場所へ戻らなくては。

 無事に逃げ切ったというのに、虚しいしい気持ちになった。
 まだ、どこかで夢を見ていたのかもしれない。
 何のとりえもない自分が、誰かに必要とされている。愛されているかもしれないというそんな愚かな錯覚。

 けれど、あのままかかわっていたら、恐ろしいことになっていたに違いないのだ。
 金品を強奪されるだけならまだしも、薬漬けにされて売り飛ばされていたかもしれない。
 ヴァチカンとマフィアの関係といえば、往年のマフィア映画でもあった。
 そもそもあんな場所で服を脱がされて、まだ、うっとりとキスをしていた自分が信じられない。
 正気ではなかった。
 本当に麻薬のようなものを飲まされていたのかもしれない。

 馬鹿だ。
 美しいけれど、あんな恐ろしい男に身を任せるなど……。
 でも、寂しかった。
 自分だけが、周囲とは違うような、いつも一人きりでいるようなそんな寂しさを誰かに解ってほしかった。
 こんな自分でも、誰かに必要とされたかった。
 だから、抱きしめられたとき、勘違いしてしまったのだ。
 今度こそ、自分を必要とする人を見つけたのかもしれない。
 夢見る少女の描く王子様を具現化したような長い金髪、美しい面差し……けれど、神父のあの眼は決して甘くなかった。

【往年のマフィア映画】 ゴッドファーザー PART IIIのこと。
バチカンとイタリア政界、マフィアの癒着を批判する内容が話題になった。


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