「け、けっこうです」
 敢然と言ったつもりだったが、サングラス越しに鋭く睨みつけられただけで口ごもってしまった。
 情けない。こんなことだから、土産物一つ買うのにも、店員の顔色ばかりを伺うはめに陥るのだ。
 きっと、曜子や沙織なら断るなり、あるいは、面白がって神父の誘いに乗るなり、はっきりとした意思表示をするだろう。
「いや……だから、どうして、あたしなんかに……」
 今さら、どう取り繕っていいのか。きまりが悪くなってうつむいた。
 このまま逃げて帰りたい。
「俺がそうしたいと思ったからだ。お前の希望とは違うのか?」
「違うも何も……知らないし……あなたのこと」
「知らない人と口をきくと、母親に叱られるのか」
 唇の端を上げて神父は、皮肉げに笑った。
 他の人の前ではもっと優しく微笑んでいたくせに、どうして二人きりだとこうも意地の悪いことばかり言うのだろうか。
 何か腹の立つことでもあったのなら、言ってくれればいいのだ。
 それとも、彼は“女”としての自分に興味があるのかもしれない。

 ──まさか、あたしに一目惚れしたとか……。

 いや、いやいやいやいや。いや。それはない。
 自分の容貌を思い出して、すぐに自分の考えを打ち消した。
 ありがちな恋愛小説でも、これはない。
 罰当たりにもほどがある。
 カトリックの神父は生涯独身とか聞いたが、それは昔のことなのだろうか。
 例えプロテスタントだとしても、偽神父だったとしても、これだけの美人が平凡を絵に描いたような日本人観光客に一目惚れするというのは、無理がありすぎる。
 布教活動をしているわけでもなさそうだし……。やっぱりナンパ詐欺なんだろうか。
 冷静に考えると、それがいちばん当たり前の答えに思える。

 でも、詐欺師が堂々と昼間からヴァチカンにいるものなのか。
 神父(あるいは詐欺師か)は、サングラスを外すとシャツの胸ポケットに収めた。
 切れ上がった眦が露になると杏珠は、その暗い眸を追うように顔を上げた。
 まともに眼が合っている時は、正視できないものの彼の視線が逸れているわずかな瞬間を狙って、神父の目許を観察した。
 男のくせにやけに睫毛まつげが長い。最初に会った時、やけにいかがわしい感じがしたのはそのせいだろうか。
 美人だとか奇麗だとかいう表現は、本来は女性に与えられるべきものであって、こんなごつい男に言うことではない。
 そういえば美しい男なんて見たことがないと言っていた曜子が、彼にだけは手放しでその美貌を賞賛していた。
 噴水でたむろしている男女が皆、神父を振り返る。遠巻きにしたまま、こちらの様子を伺っているらしい。
 もしかしたら神父はこの視線がわずらわしくて、サングラスをかけていたり前髪を長くして顔を隠したりいるのではないか。そんな想像をする。
 美しい人には、それなりの苦労があるのかもしれない。
 俗人には、およそ思いもつかないことだが。
 もう彼の美貌ばかりに注目をするのはやめよう。なんだか気の毒になってきた。



「からかっているんですか」
 まともに眼を合わせるのが怖くて、わずかに視線は下にそらす。神父の口許から顎のあたりを注視していた。
「なぜ、そう思う」
 薄い唇が動く。相変わらず流暢な日本語だ。
 外国人にしては肌理が細かい。顎には髭の剃り跡さえ見えなかった。
 神父の視線がまた自分の方へ戻ってくるのを感じる。
 自意識過剰なのだろうか。その視線が焦げつくように熱い。
 この男の目的が判らなくなってきた。
「戯言は好かぬ」
 神父は、もったいぶった古風な言い方をした。
“ざれごと”などとは、日本人でも滅多に口にする言葉ではない。
「お前は俺を知らぬと言うが、俺はよく知っている」
 言葉づかいが、やたらと芝居がかっている。どこで日本語を習ったんだろう。
 神父の手が目の前に伸びてきた時も、まだそんなことを考えていた。
 ふいに顎をつままれ、そのまま強引に持ち上げられる。
 ――何で?!

 ようやく杏珠の中で危機感が迫ってきた。
 腰のあたりを押さえ込まれているので、身動きも出来ない。
 まさか、まさか……この角度って!
 少女漫画の設定や恋愛映画のワンシーンを思い出して、杏珠は一人でのぼせ上がりそうになる。
 心臓が胸を破って飛び出しそうなほど脈を打っているし血が頭に昇って、まともな思考が働きそうもない。
 彫りの深い端正な美貌が近づいてくる。
 眼をつぶるべきか、それとも悲鳴を上げて、男の脛を蹴飛ばして逃げ出すのがいいのか。
 でも、睫にゴミがついていました。なんて……昭和のラブコメでよくあるパターンだ。勘違いして騒いだら、後で恥ずかしい。

 つい先ほどまで、ナンパ詐欺だと思っていた相手に対して、依存してしまっている。
 それが彼への信頼なのか、少女趣味な擬似恋愛のせいなのか。
 迷っているうちに、神父は顔を傾けるようにしていっそう寄る。吐息が感じられるほどだ。
 身体に染み渡るような、白檀をさらに甘くした樹木の香りの中に冷涼感と苦味が混じる。
 なんの匂いだろう……どこか懐かしいような
 冷たい感触が唇に触れた。想像していたよりずっと柔らかい。
 だが、押し付けてくる力は強かった。



 頭の中が酔っ払ったみたいにぐるぐる回っている。
 初めはついばむように、やがて段々とくちづけが深くなっていく。
 唇は冷たいのに、彼の舌は燃えるように熱かった。
 舌先が口の中に侵入して、歯列をなぞる。無意識のうちに歯をくいしばっていたらしい。
 彼はもう一度、ついばむようにして下唇を軽く噛んだ。わずかにチクッと犬歯の当たる感触があった。
 驚いて眼を開けたとき、口も開いてしまったらしい。ざらりとした舌が侵入する。
「んっ……ぅんっん……」
 思わず声を上げてしまった。
 逃げる舌はたやすく囚われる。
 身体の内側から溶けていくよう。熱いものが湧き上がってくるのを感じた。
 舌が絡まり、唾液が溢れる。
 今が昼の日中であることが申し訳ないような激しすぎるくちづけだった。
 彼の左手が支えてくれなければ杏珠は、その場に立っていることさえ出来なかったかもしれない。まるで背骨を抜かれたみたいだ。
 自分の身に起きた現実が、とてもではないが信じられない。

 神父は右手を伸ばして、杏珠の胸に触れてきた。氷のように冷たい。
 膨らみを包み込むように撫で上げ、先端を服の上から擦り上げられると身体がびくびくと震えた。
 なぜか嫌悪感はない。
 むしろ、もっと触って欲しいと望んでしまうのは、どうしてなんだろう。
 こんなふうに強引に抱きしめられるのは、初めてかもしれなかった。
 キスさえもずいぶんと長い間、したことがないような気がする。
 ろくな恋愛経験のない現実が、身のうちに迫ってくる。
 奇妙に冷静に考えているくせに、炎のようなくちづけにこがされて身動きもできない。
 心臓の鼓動が、激しく肋骨を叩く。まるで火の海に堕ちたように全身が熱い。

 もしかしたら、女性ホルモンが暴走しているのかもしれない。
 確かに恋に関しては、うまくいかないジレンマだけ抱えてきた。
 うまくいきかけたと思ったら必ず寸前のところで邪魔が入るか、自分が飽きる。

 これまでの人生からは考えられない出来事だった。
 人の多い観光名所の噴水の前で、突っ立ったまま男にくちづけさせている。
 こんなことが自分に起きるなんて。
 青天の霹靂って、こういうこと言うんだっけ……違うのか。
 身体の奥がじんじんと痺れる。
 キスだけで、こんな気持ちになるなんて。
 優しく触れられている胸の先端が痛いくらい尖ってきているのが判る。

 これ以上は、絶対にダメだ。ダメ。ダメ。
 本当にダメだって。
 ダメだ、と思うそばから思考は、零れ落ちるように散漫になっていく。
 神父の舌が、動く。思わずそれに応えようとする自分がいる。
 この男はドラッグだ。
 まともな思考能力を奪い、無抵抗にさせる。
 いけないと判っているのに、気がつくと深みにはまって抜き差しならない状態になってしまう。
 初めて逢った時に、危険だと感じていたはずだ。
 蟻地獄に堕ちいったら、二度とは這い上がることはできない。
 流砂の中でもがいているような錯覚が頭の中で渦巻く。
 すり鉢状の巣の中に堕ちていく蟻の気持ちって、どんなものだったんだろう。



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