イタリアは遺跡が多い。
 車道も歩道も石畳になっており、街中にごく当たり前のように遺跡や古い教会、寺院などがある。
 オードリー・ヘプバーンがジェラードを食べていたスペイン階段も、飲食禁止だ。
 スペイン広場の前の噴水は船が沈みかけたような形をしている。
 ガイドブックによると"バルカッチャの噴水"とあった。当時は、このあたりだけヴィルゴ水道の水圧が足りず噴水から水を噴き出すのに苦労したらしい。
 ローマは、水が豊富でいたるところに噴水があり、よく水を飲んでいる人を見かける。
 さすがに現地の人の真似をしようとは思わないが、水はとても冷たくて気持ちがいい。
 沈没寸前の船首から溢れる水に手を浸していると、腰の曲がった大柄な老婆がよろよろと噴水に近づいてくる。
 おぼつかない足取りが気になって、見ているうちに目が合ってしまった。
 老婆は、愛想よくにっこりと微笑んだ。つられてこちらも笑う。
 ようやく噴水までたどり着いたが、台座に足をとられて老婆は、転びそうになる。そばにいた杏珠が、あわてて手を差し伸べようとしたが、相手の身体に弾き飛ばされた。
 老婆とはいえイタリア人は、横にも縦にも大きい。熊に体当たりされたようなものだ。
 悲鳴を上げる暇もない。
 平衡感覚がなくなり、まるで無重力のように体が浮いた。

 水の中に頭から落ちた……と思った。
 うっすらと目を開けると、鼻先が水面すれすれのところまできている。
 背後から強い力がかかっていた。すべては一瞬のことで、何が起こったのか理解できない。
 杏珠は、息を呑んだ。

すみませんスクーズィ
 老婆は、笑って言う。不自然な体勢のまま杏珠もあやふやに微笑んだ。
 腰をつかまれている。
 通りすがりの誰かが、噴水の中に落ちそうになっていたところを助けてくれたらしい。身体ごとすくい上げられたようで、宙ぶらりんのまま足が地面に届かなかった。
「笑っている場合か」
 恫喝するような低い声が頭の上で聞えて、全身の血が引いていく。
 ぶつかってきた時とは別人のように、しゃんとした足取りで老婆は去っていく。その後ろ姿を見て杏珠は、よかったと思う反面、今の自分の状況に愛想笑いのまま凍りついていた。


 振り返るのが怖い。
 胃のあたりにまるで、鋼のような硬い腕が絡みついている。
 おそらく荷物を持つようにして杏珠の身体を支えてくれているらしいのだが、これはかなり苦しい。
「まったく手間のかかる」
 独特のはりのある声が吐息とともに、耳許に吹き込まれた。
 それだけで、ぞくっと指先まで痺れるような気がする。
 思わず眼を閉じて杏珠は、身体を硬くこわばらせた。覚えのある感触。
「少しも眼が離せんな。お前は」
 言葉とは裏腹に、甘やかすような口調だった。
 すぐに下ろしてもらえることを期待していたが、相手はなかなか手を放してくれない。
 胴を抱えていた大きな手が、やわやわと脇腹を撫でる。
「ふ、わっ!!!」
 思わず間抜けた声がでた。
 くすぐったさに身体が跳ね上がってしまう。
 よりによって、なんでそんなところを触るんだ。ある意味、胸を触られるよりも恥ずかしい。

「お、下ろして……くださ、ひっ!」
 語尾が馬鹿みたいに、しり上がりになる。
 自分の口から出た。
 なんで、こんな状況に陥ってしまったんだろう。
 いったいあたしの何が悪かったのか。
 情けない気持ちと、相手への恐れと、心細さがないまぜになったような複雑な心境。
「助けてもらったら、まずは礼を言うものだろう」
 居丈高な相手の言い分に今さらながら、だんだんと腹がたってきた。
 確かに噴水にはまりそうになったのを助けてもらったことはともかくとして、どうしていつまでも荷物みたいに小脇に抱えられていなければならないのか。
 おまけに下腹ばかり触る。幼児体型とでも言いたいか。いや、これはセクハラだ。
 何か言ってやりたいが、解放されるほうが先だ。
 ここはおとなしく、相手の言うとおりにするべきかもしれない。
 そう自分を納得させて、もごもごと口の中で礼を言った。
 それで許されるとは思っていなかったが相手は、あっさりと噴水のある台座の上に下ろしてくれた。
 やはりというべきか、まさかと驚くべきか。
 なかばうんざりとした気分で、ため息をついた。
 目の前にいたのは、ヴァチカンで別れたあの神父である。



「人がよいばかりで、間が抜けているところも、変わらずか」
 視線の高さを合わせるようにして神父は、杏珠の前にかがみ込んだ。
 さらっと失礼なことを言われたような気がするが、今はそこにこだわっている場合ではなかった。
 色の濃いサングラスをかけているせいで彼の印象深い眸が見えない。
 それが、かえって彼のきつい面差しや独特の雰囲気を際立たせている。はっきり言って怖い。
 太陽の光に透けるような金髪の下に、白い包帯を巻いて顔の右半分が隠れている。
 暗いシスティーナ礼拝堂と違って、明るい日の下で見る神父の姿はまったく違っていた。
 細身のジーンズに黒いコットンのシャツ。ありふれた服装なのに、彼が身につけているというだけで何もかもが特別に見える。
 欧米人は日本人に比べて体が大きいものだが、彼はいっそう背が高い。
 ほっそりとした長身はモデルのようにも見えるが、彼の全身から漂う威圧感や体温を感じさせない冷たさは、女性に騒がれるような要素を一切裏切っている。
 マフィアのボスでも通りそうだ。
 それでいて男のくせにやたらと髪が長い。背中で垂らし、ひとつにまとめているらしい。
 髭がないせいか不潔な感じはしないが、それでもその長髪は異様だ。
 フリーランスのデザイナーや芸能関係者ならまだしも、なぜ神父が長髪?
 変だ。
 どう考えても怪しすぎる。この男、神父でないのかもしれない。

「どうした。何を呆けている。行くぞ」
「え、え、あの……行くって……?」
 神父は、有無を言わせず、杏珠の腰に手を回し強引に引き寄せて歩き出した。
 すっぽりと神父の胸に抱かれるようにして、早足について行くしかない。歩幅が違い過ぎるので、どうしても遅れがちになってしまう。
 引きずられそうになりながら杏珠は、必死で抵抗を試みた。
「待って……どこへ行くんですか。あたし、友達を待っているんです!」
「お前の友人なら、まだブルガリにいる」
 まだ、粘っているのか。
 買い物好きな友人二人のはしゃぐ姿を思い出す。
 ブルガリはギリシャ系の高級ファッションブランドでローマが本店らしいのだが、杏珠には敷居が高い。長居するだけの根性もない。
 なぜ、この神父がそんなことまで知っているのか。ますます怪しい。

「いや、だから、ここで待ち合わせしているわけで……放してくださいってば」
「まだ当分、出てこないだろう」
「ちょ、ちょっと、待って、行くってどこに、もうヴァチカンはけっこうですから!」
「ならば"真実の口"に手を突っ込むのがいいのか」
「はあ……」
 一瞬、何を言われたのか判らなかった。"真実の口"は有名なローマの観光名所だ。
 ギリシャの国民教会にある石の彫刻で嘘つきがこの口の中に手を入れると噛み切られるという言い伝えがあるため、そう呼ばれている。
「あれは古代ローマ時代のマンホールの蓋にすぎんが」
 表情ひとつ変えず答える相手の真意が判らない。とりあえず思いついたままのことを口にしてみた。
「えっと……もしかして、観光案内してくれるつもりなんですか」
「そのつもりだが」
 それがどうしたとばかりに、神父は杏珠を見下ろした。
"真実の口"のトリビアよりも彼のガイドをしようとしていることに驚く。否定の言葉を予想していたのに。
 呆然と立ちすくむ杏珠の腰を抱いたまま神父は、かまわずに歩くのでつんのめりそうになった。
 まさか、この神父がグレゴリー・ペックよろしく"真実の口"の彫刻に手を突っ込み、抜けなくなったフリをするという映画でおなじみのシーンを再演してくれるとは思えない。
 もしかしたら、人身売買のシンジケートか何かに巻き込まれようとしているんじゃないか。

【グレゴリー・ペック】
俳優。映画『ローマの休日』の新聞記者役としても知られる。


inserted by FC2 system