もし、あの時こうしていれば……。

 杏珠は、考えていた。
 現実には"もし"という仮定はあり得ないという。
 なぜなら、この世に偶然というものは存在しない。すべては、必然で 平行世界パラレルワールドのごとく自分が選んだ道とは、別の道に“今とは違う自分”がいるはずもないからだ──と、誰かが言っていた。

 そんなわけで「俺、もうお前の気持ちが判らないよ」と恋人に言われたことも、さらにはその被害者ぶった男のセリフが実は、“女”が出来たために手っ取り早く厄介払いする目的であったことも、すべからく必然であったということになるらしい。
 さらに、その“女”というのが自分の妹だったという一昔前に流行したドラマのような現実をどう受け取ればいいのか。

 ヴァチカンへ行ったのが数年前のベストセラーの影響なら、ローマに行きたいと思ったのは昔のモノクロ映画を観たからである。
 とある国の王女と新聞記者の恋を描いたものだ。トレビの泉や真実の口などローマの名だたる観光名所やお伽話に似た単純なストーリー。少女のような可憐なヒロインに惹かれた。
 現実の恋愛で失敗を繰り返すばかりの杏珠にとってロマンスは、映画や小説の中にしか見つからなかった。





 初めての海外旅行は、元カレとの婚前旅行のつもりだった。
 本当は、新婚旅行が理想だった。でも、きっと二人で旅行できたら何か進展があるかも……そんな期待があった。
 それが土壇場で男の浮気が判明。当然、旅行はキャンセルするところだったのだが、どうしても杏珠は、イタリアへ行きたかった。
 映画の影響だけではない。心が騒ぐようなそんな落ち着かない気持ちに囚われてしまったのだ。何が、どうしてこんなに胸がざわめくのか自分でも判らない。
 イタリアという国に特別な思い入れは、映画や本のほかには何もなかった。
 もっとも、日本にいれば妹やかつての恋人のことを思い出さずにはいられないだろう。
 ちょうど都合よく学生のころからの友人たちが、イタリア旅行を計画しているのに便乗した。
 意地になっていたのかもしれない。
 これで十何回目の失恋になるのか。真剣に数えかけて、馬鹿らしくなり止めた。



 真昼のスペイン階段には、大勢の人々が座って休憩をしている。
 それを見ているうちに、杏珠もその場に座り込みたくなった。
 友人たちを待って、あてもなく一人でぶらぶらしているだけなのだ。
 ただ座ってしまうには、日陰などまったくない上に暑い。日焼けの心配もある。
 女が一人でいれば、たいていのイタリア人は「チャオ、ベッラ!」と気安く声をかけてくる。“やあ、かわい子ちゃん”ぐらいの意味だろうか。
 片言の日本語で「コンニチハ、ニホンジンデスカ?」と嬉しそうに話しかけてくる中年の男もいた。
 別にイタリアへ来て急にモテ始めたというわけではない。イタリア人男性は、挨拶代わりにナンパするのだ。
 こちらの反応が薄ければすぐに退散する。いつまでも粘ったりしない。
 小金を持っている日本人の観光客は、詐欺や掏りのターゲットらしい。

 吐息をついてコンドッティ通りに戻ろうか、どうしようかと迷った。
 広場の前が、有名ブランドのショッピングゾーンとなっており、その中でもコンドッティ通りはブルガリやグッチ、ルイ・ヴィトン等の一流ブランドのブティックが軒を連ねている。
 杏珠も最初は、友人たちと一緒にブティックに入ったのだが、商品を勝手に手にとって見てしまい店員に叱られてしまった。
 日本では、ごく当たり前の行為が、ここではマナー違反だったらしい。
 その時の女性店員のものすごい迫力にすっかり杏珠は、気圧されてしまった。
 曜子や沙織たちも同様に注意されていたのだが、怯むこともなく買い物を続けている。
 バックや財布、アクセサリー、日本で頼まれていた物など合わせると高額の買い物だ。
 そうなると店員は先ほどまでの怒りの形相など、どこへいったものか。とびっきりの営業スマイルで応対する。
 今日は買い物だけで、一日潰れてしまいそうだ。彼女たちの旅行の目的の大半がこのショッピングだったのだから仕方がない。
 友人たちは、その後かれこれ二時間近くも買い物をしている。
 杏珠は、弟に頼まれていたキーホルダー。それにペンダントを買うと、店を出てしまった。
 ペンダントは、母と妹への土産だ。
 そんなものを買ったところで、妹は受け取るだろうか。
 事実を知ったときには、口もきかなかった。
 元カレへの想いよりも妹にたいする腹立ちしかなかった。
 怒りを感じるのは、それだけ思い入れが強いからだ。妹は血を分けた肉親で、別れた恋人は赤の他人でしかない。
 恋人を妹に取られるというのは、かなりドラマチックな出来事だろう。
 それも日本を離れてみれば、どうでもいいことに感じられる。まるで遠い別次元のことのようだ。
 元カレは、不細工な犬に似ていた。
 パグというのか。あれは犬だから可愛いが、人間の男にしてしまうと非常に残念なことになる。
 だけど、愛嬌があって人が良くって、おしゃべりで、ものすごいポジティブ思考。一緒にいると退屈しない。自分とは真逆の人だった。
 そんなことを思い出して杏珠は、自分で自分に呆れた。

 ――彼が好きなの……。

 そう言った妹が、幼いころの姿と重なる。
 お姉ちゃんのものが欲しいと駄々をこねて泣いていた。
 ウサギの形のクッキーやお気に入りのキャラクターのついたハンカチ。甘い匂いのする消しゴム。
 いらないと思っていたものでも欲しがられると、それがとても素敵なものに思えて誰にも渡したくない。
 それなのに、泣きべその妹の顔を見ていると、どうにもかわいそうでたまらない。結局いつも譲っていた。
 譲ったところで妹はすぐに飽きてしまい、またケンカになるのだが、半日もすればすぐに仲直りしてしまう。

 よりによって姉妹を二股にかける男など、未練などかけらもない。よくもあんな男と結婚する気になったものだ。別れてよかったと今では思う。
 杏珠にとっては、初めての相手でもあった。
 もっとも、関係を結んだ後は、ひどく冷淡になったのは、すでに妹と二股をされていたからなのか。
 映画やドラマであるような相手を殺してやりたくなるほど、誰かを愛することなんて想像もつかない。
 恋愛に対するテンションが持続しないのだ。
 付き合った当初はメールするのにも気持ちが盛り上がっていたものだが、それが付き合えば付き合うほど、だんだん彼氏との付き合いが面倒になる。
 女同士の付き合いの気楽さに比べて、恋愛の面白みを感じられないのだ。
 かといって一人が平気なのでも、寂しくないわけでもない。
 だから寂しくなると一生懸命に彼氏をつくって、やっと彼氏ができると“もういらない”になる。
 たぶん、そんな杏珠の気分に相手は気づいて“お前の気持ちが判らない”ということになるのだろう。
 判ってはいるが、どうしようもない。



「ねえ、なんでイタリアなのに、スペイン広場なの?」
 ふいに甲高い声が聞こえた。日本語なので、耳が敏感に察知してしまう。
「近くにスペイン大使館があるから、とかってガイドブックに書いてあったけどな」
 カメラを構えた男が答える。小柄だけどがっしりとした体躯をしている。
 顔は日焼けしてニキビ痕が目立つせいか、ちょっと幼く見えた。
 カメラに向かってポーズをとっている女の子は、スレンダーで大人びた感じ。
 なんとなく妹を思い出させる。
 妹は、面長で切れ上がった涼しげな眼をしていて、とても落ち着いている。それに対して杏珠は、丸顔で幼く見えるらしい。
 いつも妹と姉が逆だと勘違いされてしまう。
 若い日本人のカップルは、交代で写真を撮っていたが、やがて階段の上にカメラを置いた。どうやらセルフタイマーにして、並んで写真に納まろうとしているらしいが、なかなかうまくいかないようだ。
 何度も、彼女とカメラの間を行ったり来たりしている。

「カメラのシャッターを押して上げましょうか」
 見かねて杏珠は、声をかけた。
 先に振り返ったのは女の子だった。すごい形相で睨みつけられる。
「けっこうです!」
 周囲の人が振り向くほど、きつい言い方だ。断られるとは思わなかったので杏珠は、茫然としてしまった。
 男のほうが、申し訳なさそうに何度も頭を下げている。女の子は、つんと向こうを向いてしまった。
 ばつが悪そうに男は、女の子を引っ張ってその場を離れた。
 なんで、怒られたんだろう。何か失礼なことでも言ったっけ?


 どちらかといえば人見知りするほうなのだが、同じ日本人を見るとつい話しかけたくなってしまう。
 特にこんな外国人に囲まれた観光地の中で、ひとりきりでいるからよけいにそんな気分が高まってくる。
 人気の観光地で手持無沙汰にしていると、よくシャッターを押してくれと頼まれる。
 日本でもしょっちゅうあることだから、つい声をかけてしまった。
 もしかしたら、観光客相手の新手の詐欺師と勘違いされたのか。
 イタリアの有名観光地は掏りが多いから。



「一人で海外旅行にくる女ってさぁ。何が目的なのかしら……」
 妙に甘ったれた語尾を伸ばす声が聞こえた。
 振り向くと、先ほどのカップルの女の子だ。
 あまり待ち合わせの場所から離れられないので、スペイン広場の中をうろうろしているうちに、またあの二人に行き会ってしまったらしい。
 肝心の友人たちには、会えないのに。

「日本じゃ地味な女に限ってさぁ、外国にくると勘違いしちゃうのよね」
 妹も、あんなふうに語尾を伸ばす。最近の流行りなのか。
「お前、言い過ぎだろ。写真撮ってくれるっていうのに」
「いやよ。あんな陰気な子に撮ってもらったら、心霊写真になっちゃう」
「そうかな。あの子、癒し系でけっこう可愛かったじゃ……」
「ちょっと何よ。それ! どうせあたしには癒されないってことね」
「そんなこと言ってないだろうが、お前。何、言ってんだよ」
「もう、いいわよ! 知らないわよ!!」
「……わけ判んねえよ」
「こっちのセリフだわ。よりにもよって、あんなチンケ女のことなんか」
 あっという間に痴話喧嘩が始まった。周囲の人たちが面白そうに見ているのを、男のほうが気にして、小声になる。
 女は、カッとなると手が付けられないらしい。地味な女のことを、罵っている。

 地味で陰気で、心霊写真を撮りそうな子って、あたしのことよね。
 神父には、自殺願望があるとまで言われた。
 そこまですさんでいるのだろうか。
 スカートに薄手のカーディガン、ブラウスといった保守的なスタイル。
 髪もカットしたばっかりだ。
 失恋したから……というわけではなく厄払いみたいな気分で、長かった髪を肩あたりでばっさりと切った。
 短くしたせいで、ますます童顔に見えてしまうらしいが、自分では、わりと気に入っている。



 それにしてもいくら一人だからといって、そんなもの欲しそうな様子をしていたのだろうか。
 こんな観光地には、新婚や熟年のペアが多い。
 急に人恋しくなってきた。
 今からでも、友人たちのいるブランド店に行こうか。ホテルに戻るのもつまらない。
 映画なら、王女役のオードリー・ヘプバーンがスペイン広場でジェラートを食べていたら、偶然の出会いを装って新聞記者のグレゴリー・ペックが登場するところだ。そのあと、二人は真実の口など名所を訪れて……。

 ふいに、冷たい目をしたヴァチカンの神父の顔が浮かんだ。
 今まで杏珠の知るどんな男たちとまるで違う。
 息を呑むほどの美貌だった。
 あれはヴァチカンという仄暗い空間の中だからそう見えたのだろうか。
 単純に美しいという言葉では、言い表せない得体の知れぬ暗さをまつわらせていた。



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