「楽しそうですね」
 突然、茶化すような声が暗い廊下から響く。
 どこか女性的な優しい声音であるが、言葉の中には針が仕込まれている。
 その声にイリアが反応するよりも早く、足下のアザゼルが猛然と起き上がった。
 さながら“最後の審判”で復活する死者のようにも見える。
 割れた額から血があふれるのもそのままに、頭を振って大量の出血を飛ばした。犬が濡れた身体を振って被毛についた水を払うのに似ている。
 血や土埃を避けるようにしてイリアは、後ろに下がり円柱にもたれかかった。
「てめぇ、この蛆虫がっ!!」
 薄闇に向かって、アザゼルが吼える。

「ご無沙汰しております。至高界の歌と祈りを司る主よ。被造物の救出者よ」
 気取った様子で大理石の柱の影から、侍童を連れた小柄な男が姿を現した。
 白い僧服アルバの上から、叙階のランクを表すストラを前で交差させて腰紐チングリムを結んでいる。
 肩の上ほどで切りそろえた淡い金髪。
 優しい女のような美貌だが、細腰で歩き方が心もとない。
 まるで纏足をしているかのように侍童の肩につかまりながらゆるゆると近づいてくる。アザゼルは、それを待たなかった。
 相手の胸倉をつかんで、高々と吊り上げる。
「そんなに興奮なさると、血が止まりませんよ」
 白い僧衣姿の優男の表情にあせりや苦悶の色はない。飄々としている。
 侍童の方が高い声で悲鳴を上げた。変声期前のほんの少年である。

「どこから湧いて出てきやがった。ミカエル!」
「きみが主と陰険な漫才をやっていたあたりから、拝見しておりました」
「はん、それならてめぇも仲間に入れてやるよ」
 言うなりアザゼルは華奢な男の体を、壁に叩きつけた。
 鈍い音とともに、壁に血が飛んだ。
 金色の髪に血の色が混じる。ミカエルは顔をゆがめたが、それでも呻き声ひとつあげない。
「面白れぇもんだな。天使も悪魔も火から造られたってのに、血の色は人と同じかよ」
「そうですね。神は自らに似せてわれらを創造されたのですから……もっとも人は土から作られたので、はるかに脆い生き物ですよ」
 首を絞めあがられているというのにミカエルは、平然と話を続けている。
 侍童が泣きながら、アザゼルの足に取り付いて雛鳥のさえずりのような哀れな声で叫んだ。



「小鳥が騒がしいぞ」
 黙って成り行きを見ていたイリアがおもむろに言った。
 高位の司祭に対するスイス衛兵の暴挙を止めるつもりはないらしい。
「御意。わが主」
 アザゼルはその目に強い光を走らせながら、わずかに笑った。
 足元にまとわり着く子供の腹を蹴り上げ、なおもミカエルの首を締め上げる。
 侍童は、蹴リ飛ばされて、小さな体がまるでゴム毬のように回廊の隅へ転がった。柱にぶつかり、苦しそうに身をよじらせる。
 腹部を蹴られたためか、その場で勢いよく噴水のような嘔吐を始めた。
 それを見ながら、子供に無体を働いた衛兵が、舌打ちをする。
「不敬だぞ。神の御許を穢しやがって」
「きさまも、な」
 法王の近衛兵を暴行した神父が平然と言う。
 まだ新しい聖マルタの家ドムス・サンクタエ・マルタエは、すでに壁と床に大きなひび割れを起こしていた。
 そこへ子供の吐瀉物と、大人たちの血の臭い。立ち込める埃とで凄惨な状況ができあがっている。
「あの子は口が利けないのですよ。もう少し優しく扱ってもらえまいか」
 余裕のある言葉つきをしていたミカエルだったが、さすがにアザゼルの締め上げる力に呼吸がおぼつかなくなっているらしい。
 後頭部を壁に押し付けられ、頚動脈を圧迫される。蒼白になっていく唇から唾液が溢れた。
 それでも表情だけは変わらない。
 かすかに唇が動く。
 喘ぎのような言葉を聞きとり、イリアが放してやれとばかりに軽く手を上げた。
 主人の命令にアザゼルは、忌々しげに手を放す。
 壁際にもたれたまま崩れ落ちるミカエルの顎を、アザゼルは足蹴にした。
 仰向けのままミカエルは、床の上に倒れ込む。白い僧衣に癖のない金髪が散り、まるで手折られた花のようだ。
「死んだ振りなぞ、気色の悪い真似はするんじゃねぇぞ?」
 アザゼルは、ぐったりとして動かないミカエルを靴の先でつついた。
「“振り”ではなく、本当に死にそうになりましたよ。アザゼル。わたしは、君と違って繊細にできているのでね」
 わずかにかすれた声でミカエルが応じる。それでも呼吸の乱れはない。
「蛆虫のくせに面白い冗談が言えるじゃねえか」
「お気に召したなら、何よりだ」
 ようやく嘔吐の治まった侍童が、年若い主人のもとへ戻ってきた。
 目を赤く腫らし、さえずるような小さな声が何ごとかを訴えている。




「きさまらのじゃれあいは、もう見飽きた。それより要件はなんだ」
 倒れたままのミカエルを見下ろしながらイリアは、言う。僧服を着ていながら、血まみれになった若い司祭に対する配慮などまったくなかった。
「わが主よ」
 侍童の手を借りて、ゆっくりとミカエルは身を起こす。その間も、イリアのほうをまともには見上げることはしなかった。不敬に当たるからだ。
「俺は、きさまの“主”などではない」
「申し訳ございません。ですが、御身は、いついかなる時も……」
「聞こえなかったのか。さっさと要件を言え」
 抑揚のない声でイリアは、ミカエルの話を断ち切った。アザゼルが続ける。
「言わねえと、そのヅラを剥がすぞ」
 主従の言葉にミカエルは、苦笑する。
 十になるか、ならぬかという幼い侍童は、必死にミカエルに取りすがって泣く。
 何かを言っているようだが、発話障害のためか息漏れをしているようにしか聞こえない。
 ミカエルは、穏やかに答えた。
「これは地毛です。あなたがすごむと、この子が怯えるではありませんか」
 侍童に助け起こされながらミカエルは、床の文字を読んだ。
ことごとく御身のものなりトトゥス・トゥース……」
 教皇の紋章の下に書かれたラテン語の文字にミカエルは、手を伸ばす。血に染まった指先で触れながらイリアに向かって言った。
「この世のすべては、御手みてから受けたものですから、御身に捧げられるのが当然でありましょう。ですが、あれのことはどうか……お忘れくださいませ」
「きさまは、何が言いたい」
「男であり女であるもの。アダマスと呼ばれる原初のヒトのことでございます。いいえ、ヒトと呼ぶにはあまりに不完全な存在」
「第二のアダムは、すでに存在しているはずだ」
 ミカエルは、侍童から受け取った手巾で口もとを丁寧に拭った。
「そのアダムもあの“なりそこない”のせいで……」
「アダムから見れば、自身の無意識の女性像ともいえる存在だからな。だが、それは杞憂というものだ。アダムには対となるイヴがいるはずだ」
「しかし……主よ!」
「俺は、きさまの“主”ではないと言ったはずだ。ミカエル」
 初めてイリアは、若い司祭の名を呼んだ。
 その声を聴いたときミカエルは、まるで瘧にかかったように震えだした。

 アザゼルは、ふんと鼻を鳴らす。
「ずいぶんと殊勝なことだ。その御手を焼いた蛆虫が」
 震えながらミカエルは、その場に平伏した。侍童もそれに倣う。
「どうぞ、お許しを……代わりにわたくしは足を失いました」
「今度は、足のみで済むと思うな!」
 言うが早いか、矛槍をアザゼルは、ひれ伏した相手の首――延髄に狙いをつけて投げつけた。
 威嚇ではなく、急所を狙った。
 これほどの至近距離ならば、外す方が難しい。
 だが、得物に手応えはなく、ミカエルのストラごと床石に突き刺さった。
 金髪が一房、散っている。
 侍童を連れて逃げたらしい。
 それまでのゆるゆるとした動作からは、想像もつかないほどの逃げ足の速さだ。

「せっかく遊んでやろうとしたのに、無粋な奴だ」
 アザゼルが舌打ちをする。
 現れたのと同じく、消える時も唐突だった。文字通り霧か霞のように消えてなくなっている。
 ひび割れて大きく陥没した床石と、罅割れた壁を眺めながらイリアは言った。
教皇選挙コンクラーベでも使うのだから壊すなよ」
 二十世紀末に建築された聖マルタの家は、まだ一度しか使われたことがない。
「最初に床を破損させたのは、御身です」
「ああ、そうだったな」
 モザイクの床には、この建物を建設した教皇の紋章と TOTUS TUUS トトゥス・トゥースの文字がある。
「アダムが、“やつら”の手から飛び立ったのではない」
 血だまりにある文字を見下ろしながらイリアは、窓から差し込む光に目を細めた。

「“神”に固執するあまり人は、しだいに現実から乖離していくのだ。何かにすがらなければ生きていくことができない。万物を擬人化してしまったころから、それらに白紙委任状を手渡してしまったというわけだ」



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