杏珠を見送った後、神父は聖マルタの家ドムス・サンクタエ・マルタエへ来ていた。
 禁域である。
 教皇選任コンクラーヴェ中の枢機卿住居で、この施設を造ったのは第264代の教皇であった。
 おかげで、前回のコンクラーヴェから選挙者たちが冷たいシスティーナ礼拝堂内に閉じ込められるという慣例は廃止されている。

 今は、教皇選任の時期ではないため人の気配はなかった。
 一般の観光客などが、立ち入らないように常に門衛が見張りをしている。
 彼に付き従っていたスイス衛兵は、頭に載せていた帽子をむしりとる。絡んだ硬い黒髪が額の上に落ちた。
 白い襞のついた衿に指を入れ前開きのボタンを手荒く外す。
 際立って整った顔立ちは、眉間に皺が寄っていた。
 神父は、壁に寄りかかりながら若い衛兵の青と黄、オレンジの縦縞模様の古風な16世紀の軍服を面白そうに眺めた。
 ミケランジェロがデザインしたと伝えられているが、この奇抜な軍服を復活させたのはピオ10世の治世だ。
 19世紀にスイス衛兵隊は改革されたが、この衣装を文豪スタンダールはグロテスク。哲学者テーヌにはオペラの衣装と酷評したという経緯がある。




「気に入らんようだな。アザゼル」
 そう言いながら、神父自身も衿を緩めてケープの中に隠し込んだ髪を出していた。一つにまとめてゆるく編んだ金髪を背中に垂らすと、大腿からくるぶし近くまで届きそうなほど長い。
 アザゼルと呼ばれた二十歳前後の青年は、大げさに肩をすくめて見せる。
「道化もいいところです」
「そんななりまでして、俺に何の用だ」
 髪の長い神父は、唇の端だけを上げて笑った。
「わが主がこちらへいらしたというので、上が騒いでいるようです」
「だからどうした。この身は未だ囚われているというのに」
 顔の右側を神父は、手袋をはめた手で押さえた。糸のような金髪がその手にまつわる。

「そこまでして、なぜあの小娘にかまわれます」
「親が子をかまうのが、おかしなことか」
 包帯の巻かれた右目を押さえたまま、神父ははすかいにアザゼルを見下ろした。
 アザゼルも小柄な方ではないが、それでも長身の神父と並ぶと頭半分ほど背が低い。
「おお、失念しておりました。申し訳ございません。ディーオ パードレ。我らが父よ」
 斧槍と帽子を手にアザゼルは、芝居がかった辞儀をして見せる。
 それでも神父の隻眼をまともに、見返すことはせず視線をそらせていた。
「なるほど、わが主はそうやってあの小娘を睨んでおられたわけだ。逃げられても仕方ありませんな」
「俺の顔はそれほど凶悪か」
 形の良い金茶の眉を神父はしかめた。
「ちょっとした小動物なら睨み殺せそうです」
「きさまに言われたくないものだ」
 確かにアザゼルも、少し吊り上りぎみのきつい眼をしている。
 だが、それは表面的なことであり、複雑な感情の入り組んだ底の見えない深海のような神父特有の暗さはない。
 群青色の眸は滝からなだれ落ちる水のごとく単純だが、鮮烈な激しさをはらんでいる。
 それがアザゼルの若さであり、神父との決定的な違いだった。



「お気になさったんですか。わが主」
「アザゼル。ここで俺のことを主と呼ぶな」
「ヤハウェか、ナザレの大工の息子のようだとでも。では、なんとお呼びすれば」
 キリスト教の総本山において、旧約聖書と新約聖書の神と神の子をアザゼルは気安く呼んだ。
 ナザレの大工とは、聖母マリアの夫ヨセフのことで、キリスト教徒としては不敬が過ぎる。
 神父はアザゼルを咎めもせず、髪をかきあげた。
「ここでの名だ」
「では、イルヤース様とお呼びいたしましょうか」
 神父は、かすかに吐息をもらした。
「イリアだ。ヴァチカンには合うだろうが」
“イルヤース”とは、コーラン(イスラームの根本聖典)に記述される預言者の名前だった。
 旧約聖書においてはエリア、イリアとも呼ばれる。確かにヴァチカンにはその名のほうがふさわしいかもしれない。
「案外、あの方が小娘をこちらへ招いたのかもしれませんな」
「気色の悪いことを言うな。あれがわが子に興味をもつなど……」
「ないとも言いきれません。現に御身がここにおられるのですから、まあ、あの方の執着ぶりは御身を超えているとも言えます」
 神父は肩のケープを払いのけながら、腕を組んだ。
「わが子の相手は、きさまにさせるべきだったのかもしれんな」
「俺は、鬱ぎみの小娘の相手は無理ですよ。それより、もうあの小娘のことは捨ておかれるのがよろしいかと……」
 アザゼルは最後まで言い終わる事ができなかった。
 華奢とはいいがたい男の体が前のめりに倒れ込む。
 床石で額が割れた。尋常でない量の血が溢れだす。



「さっきから小娘小娘と……。5度もそう呼んだな。きさま」
 硬いモザイクの床が砕け、スイス衛兵の頭がめり込む。その上に神父の足がある。
 うつむけに倒れたままのアザゼルの身体は地面の上に投げ出されたまま、時おり痙攣するような動きをした。
 イリアは右足に重心を込めて、さらにアザゼルの後頭部を踏み抜く。
 もがく手が伸ばした床には、鮮やかな大理石やズマルトでラテン語と教皇冠の意匠をあしらった紋章が刻まれている。ぬめった血がそれらを穢した。



inserted by FC2 system