いったい、どこをどう歩いたのか自分でも判らない。
 気がつくと長い蝸牛かたつむりの殻のようなブラマンテの螺旋階段から、建物の出口に出てきていた。
 ガラスの回転扉をくぐって、外へ出ると日差しが強い。
 それでも杏珠は、身体の震えが止まらなかった。
 この得体の知れない神父の傍から、一刻も早く離れたい。
 つかまれたままの肩は、痛みより痺れを感じ始めていた。
 ルネッサンス風の衣装を着た衛兵が神父を見て、物々しく音をたてて槍を地面に叩き付ける。
 杏珠は、身体が跳ね上がるほど驚いた。どうやら敬礼をしたようだ。
 背後で神父の笑う気配がした。
 誰だって驚くはずだ。こんな大げさな礼儀を衛兵が他の司祭たちに行っているのを見たことがない。
 それほどこの神父は、特別なのか。



「杏珠!!」
 聞きなれた声が呼ぶ。礼拝堂ではぐれた沙織だ。
 杏珠の中で緊張の糸が切れる。全身の力が抜けそうな気がして両足に力を入れて踏ん張った。
「もう、どこ行っちゃったのかと思ったわよ」
 沙織がほとんど泣き声になりながら駆け寄ってしがみついてきた。ようやく神父は、杏珠を解放した。
 腰から手が放される瞬間、静電気のようなビリッとした嫌な感覚が走る。
 思わず声を上げそうになったが、沙織がしがみついて放さなかったので、なんとかこらえることができた。
「探したのよ。見つからなかったらどうしようかと」
「無事でよかったわ。杏珠、あんたってば本当にドジだから……」
 苦笑いしながら言ったのは、しっかり者の曜子だ。
 二人とも心配してくれたのだろう。
 だが、杏珠の後ろにいる神父の姿を見るなり、二人は頬を赤らめた。判りやす過ぎる反応に今度は、杏珠のほうが笑いそうになる。

「この人がここで待っていたら、司祭様が杏珠を連れて来てくださるって」
 そう言って曜子は、先ほどのスイス衛兵と神父に頭を下げていた。
 外国人から見れば日本人のお辞儀はちょっと変わって見えるのだろうか。衛兵は、にこりともしない。
 杏珠も礼を言った。
「あたしたちサン・ピエトロ大聖堂のほうへ通じるドアから出たのよ。杏珠は図書館のほうへ行っちゃったのね」
 曜子は、首をすくめて言った。
「あんたってば、本当に目が離せないのよ」
 沙織のほうは、物も言わない。魂でも抜かれたようになって、まだ神父を見とれている。

 ほんの数十分前のことなのに、もう何時間も過ぎたようなそんな倦怠感がある。
 友人たちは、神父の美貌に見惚れ、記念写真を一緒に撮らせてほしいとねだっていた。
 ヴァチカンのスイス衛兵というのは本来、法王直属の近衛兵だという。旅行客がこぞって撮影をするサン・ピエトロ寺院の門番を務めるスイス兵たちは、まだ新米だと聞いたことがある。
 それなら、門番ではないこのスイス兵は、まだ若く見えても上の者なのだろう。
 若いというならこの神父もそうだ。
 ヴァチカンで見た高位の司祭はたいてい老齢だった。白色人種特有の赤みを帯びた顔は皺深く、髪は真っ白な人が多い。
 もちろん神学生や若い聖職者もいるにはいたが、まるで、この男とはかけ離れている。

 糸のような黄金色の髪に白人らしからぬ浅黒い肌。艶やかな美貌。すらりとした長身は、沙織や曜子の興味を惹く。
 しかし、相手はヴァチカンの聖職者だ。
 今や杏珠をそっちのけで神父に群がる友人たちの神経の太さに、ほとんど呆れてしまう。
 あの眼が恐ろしくはないのだろうか。
 なぜ、こうもやすやすと話ができるのか。
 友人たちの後から神父の様子を見る。
 神父は、うっすらと眼を細めており、長い金の睫が羽毛のようにその眸の上に影を落としている。
 意図的か、あるいは偶然なのか。あの切れそうなほど鋭い眼の輝きを瞼の下に隠していた。
 そうやっていると、光に透けるような金の髪と右目に包帯を巻いた姿は痛々しいほど優しく見え、あの威圧的な恐ろしさはまったく感じられない。
 あの悪魔のような印象は、なりを潜めてどこから見ても親切で善良な神父である。

 ──本当にこの男は神父なのだろうか。
 そんな疑問が杏珠の中に浮かぶ。
 槍を持ったスイス兵に促されて、神父は静かにうなずいた。
 名残惜しそうな友人たちに神父は、礼儀正しくイタリア語で応じながら、その場を離れようとしている。
 先ほどまでの杏珠への馴れ馴れしい態度とはまるで違う。
 そもそも、彼は日本が堪能だったはずだ。母国語みたいに喋っていたくせに。
 こちらを見て、神父が笑う。
 唇の端だけを上げる皮肉っぽい微笑みではなく、ほとんど温かみさえ感じる。
 杏珠は、思いっきり眉を寄せた。顔中の皺が鼻の上に集まっていただろう。



「ブォン ヴィヤッジョ」
 この旅行中に何度も聞いた言葉だ。良い旅を……という意味らしい。
 聞きなれた言葉なのに、彼が言うと不思議な響きがあった。
 艶のある低い声が、蠱惑的にさえ感じる。
 友人たちは頬を赤らめながら、グラッツエを口々に繰り返した。
 当然、杏珠も皆といっしょに“ありがとう”を言うべきだ。
 ガイドブックにあった簡単なイタリア語である。レストランやみやげ物屋で頻繁に口にしてきた。
 それなのに何も言うことができない。
 まるで、上下の唇が接着剤で留められてしまっているかのようだ。

「アンジュ」
 唐突に名前を呼ばれた。杏珠は息をつめる。
 沙織と曜子が驚いて顔を見合わせていた。
 そういえば、どうして彼は自分の名を知っているのだろう。
 今さらながら杏珠は、戸惑っていた。
 もう何度か呼ばれていたはずだ。その時にはまったく当然のことであるような気がしていた。
 名前だけではない。
 なぜ、礼拝堂で沙織や曜子にはぐれて、すぐにこの神父が声をかけてきたのか。
 まして時間をおかず彼女たちにスイス兵を使って知らせることなど、普通はできるものではないはずだ。

「チ・べディアーモ」
 神父は、まっすぐに杏珠だけを見つめて言った。
 派手な青と赤と黄の縦縞の制服を着た近衛兵に護られるようにして、神父は中庭のほうへ歩いて行く。
 すでに彼は、違う世界にいた。ほんの数メートルほどの距離がひどく遠い。
 午後のけぶるような太陽の光が神父の髪にまつわり、眩しさに杏珠は眼を細める。
 彼のいる場所だけが、時間さえも隔ててしまったかのようだ。
 システィーナ礼拝堂で見たあの天井画の描かれたイタリアが統合される前のメディチ家が支配していたころ。ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロが生きていた華やかで暗いルネッサンスの時代。
 およそ現実離れしている。
 ふいに、神父のキャソックから漂う独特の香りを感じたような気がした。
 エキゾチックで、どこか懐かしいような不思議な香木の匂いが……。

チ・べディアーモ(Ci vediamo)  イタリア語。意味はまた会いましょう。



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