「お前は、外見で他人を判断するようだな」
「……え?」
「この姿をした者は、聖職者だと思っているようだが」
 まるでこちらの考えが見えているかのような神父の言葉に、杏珠の足が止まった。
「凶悪な殺人犯が坊主のなりをしているだけかもしれんぞ」
 背の高い神父を見上げたが、もう彼は笑ってはいない。
「どうする?」
 冗談なのか、本気なのかまったく判らなかった。
 欧米人は、日本人に比べて体が大きいものだ。黒い僧服のせいか、いっそう背が高く見える。
 けおされそうな圧迫感に足許がよろけそうになった。
 支えてもらっても、その腕がたくましいだけに却って落ち着かない気分になる。
 この腕なら東洋人の首くらい縊ることくらいできそうだ。
 悲鳴を上げる暇もないほど簡単に。

「冗談……ばっかり」
 杏珠は小さく呟いた。
 笑ってごまかそうか。それともまさか、本当に助けを呼ぶべきなのか。
 落ち着こうとすればするほど、頭の中は混乱する。
 腋下を冷たい汗が流れていくのを感じた。
 神父から少しでも離れようとするが、しっかりと腰を抱かれたまま動くこともできない。
 まさか。そんなことが起こりうるはずがない。こんなに大勢の観光客がいるんだ。
 でも、狂気というものはどこにあるのか判らない。もしこの神父がそれに憑りつかれていたとしたら?
 日本から離れたこんな遠い国で、殺されたらどうなるんだろう。
 死体も見つけてもらえずに、どこかで腐ってしまえば……。
 でも、もし、本当にここで殺されたら……日本で待っているゴタゴタに頭を悩ませなくてもいい。

 それとも、神父が自分に好意をもっているのだとしたら?
 このまま浚って、どこかに連れて行ってくれるなら……。ここでない、どこかに。
 楽天的な考えと、極端に悲観的な考えが入り混じって、頭の中がぐちゃぐちゃになってくる。



「騙されやすいところも、変わっておらんな」
「えっ……あ、あの……」
 我ながら、みっともないほど動揺している。
 無理にとってつけた笑いが頬のあたりで引きつり歪む。
 どうやら遊ばれているらしい。
 行きずりの観光客をからかって楽しんでいるのだろうか。
 ヴァチカンの聖職者にしては、あまり良い趣味とは言えない。
 だが、こういったことには杏珠は慣れていた。
 イジラレ役というのだろうか。
 学生時代には真面目な優等生であったことや、世間知らずなのをよくからかわれたりした。
 社会人になった今でもそれは、あまり変わりがない。
 腹立たしさよりも、今まで舞い上がってしまっていた自分が情けなくなって、不覚にも涙が出そうになった。

「馬鹿が……」
 低い声で神父が言うのを聞いて、杏珠はいたたまれなくなってきた。
 鼻の奥がつんと熱くなって、やるせなさに顔に血が昇る。
 だめだ。どうも神経質になっているらしい。
 外国で迷子になってしまったことも、かなりの衝撃だったようだ。
 ささいなことでも、すぐに感情的になってしまう。情緒不安定すぎる。まるで思春期の中学生だ。
「そんな顔をするな」
 下を向いた杏珠を覗き込むようにして神父は、言った。
 凶悪な目つきをした神父でも、気の弱い日本人を泣かせたことに罪の意識でも感じたのだろうか。
 肩を抱き寄せる手が、杏珠の髪を撫でた。
 少しからかわれたくらいで泣いたり、怖がったりしているなんて、変な女だと思われたかもしれない。
 そう思うと、胸のあたりがきりきりと痛んだ。
 もう、このまま放っておいて欲しい。
 出口まで行けば、おそらく一緒に来た友人たちや、添乗員にも会えるはずだ。
 この神父は本当に意地が悪い。



「興味があるなら禁書でもなんでも見るがいい。それとも十字架のないイエス像か、最初の殉教者ステファノの首が見たいか?」
 慰めているつもりなのだろうか。
 まるで子供に飴を与えるように、珍しげなものを神父は並べ始めた。
「死海文章は……イスラエル考古学庁がデジタル化して公開したのだったな。ここでは異端ということになっているが」
 申し訳ないが死海文章と言われても、ぴんとこない。
 何年か前にNASA(アメリカ航空宇宙局)の技術で解読したとかなんとか、話題になったこともあった。
 なんにしても彼は、子供や学生ならばともかく女の扱いに長けたという性格ではなさそうだ。
 聖職者ならば当然なのかもしれないが、今どき女性信者も多いだろうに。
 それでも、こちらの興味を引きそうだと親切に言ってくれるのかもしれない。
 先ほどの悪ふざけも、きっと子供を脅かすようなつもりでやっていたのだろう。
 ちょっと人相が悪いからって外見で人を判断しちゃいけないと、さっきも後悔したばかりではないか。
 再び杏珠は、反省をした。
「腐敗せずに残るのはベルナデッタの遺骸もそうだが、ステファノには石打ちの刑にされた痕もそのまま残っているぞ」
 拷問の痕のある殉教者の首など、例え神聖なものでも恐ろしいだけではないか。
 女の子がそんなものを見て喜ぶと本気で思っているのかしら。ほとんど嫌がらせだ。
 案外、この神父……天然なのかもしれない。



 神父の胸にも十字架がない。つられるように杏珠は言った。
「十字架のないイエス像ですか」
 絵画なら十字架の代わりに後光が差していたりするが、十字架がなければキリストの像とは判らないかもしれない。
 ピエタのように十字架から下ろされた状態を表しているのだろうか。
「前の教皇の部屋にある」
 こともなげに神父は答えるが、杏珠は眉根を寄せた。
 教皇の部屋など、普通入れるはずがない。
「それって一般公開してるわけじゃ……ないんですよね」
 また、からかっているんでしょう。そう言外に匂わせた。
「ならば、どうだと言うのだ。問題はお前が望むかどうかということだけだ」
 神父の声がさらに低くなったような気がして杏珠は、急に怖気づいた。
 どうしよう。
 機嫌を損ねるようなことを言ってしまったらしい。
 からかっているのではなく、本当に見せてくれるつもりだったのかも。杏珠は、しどろもどろになった。
「いえ、あの……あたしなんかが……いいのかな……って」
「何が言いたい」
「えっと……あたし、学者でもなければ神学生でもないし……本当にただの観光客なんです」
 すいません。口の中でもごもごと謝った。
「お前は謙虚だとか控えめだとか、周囲からそう言われることを美徳のように思っているらしいが」
 神父は、杏珠の肩に回した手に力を込めた。
 強い握力に思わず顔をしかめるが、神父はかまわず話を続ける。
「そうやって一歩も二歩も引いていた結果、恋人を妹に寝取られたのではないか」



 激しく後頭部を打ち付けられたような気分だった。
 話が妙な方向へずれているのは判っている。
 ただ、彼の言葉は紛れもない事実だ。
「周囲の期待に沿うように言いつけに背かず、だから自我も育たなかったのだろう」
 言い返そうとして、口を開いたが喉が渇いて言葉にならない。舌がもつれる。
 とっさに杏珠は神父の手を振り解こうとしたが、身じろぎもできなかった。
「人と争うことや、われ先に飛びつくことがそれほど恥ずかしいことか」
 神父は淡々と言う。低い声にはまるで感情というものがない。
「いい子で人に“譲る”のは、そんなに気分がよいのか」
 心臓が激しく脈うち、こめかみに痛いほど、血液が流れている。
 何を言われているのか、すぐには判らないほど杏珠は混乱していた。
「傷つくのを怖がって尻込みするのも、ほどほどにしておくがいい」
 杏珠は両手を拳にして握り締めた。

 ――何、言ってんの。この人……。
 憶測にしては現実的すぎる。知っているのはごく一部の友人だけだ。
 やはり魔王なのか。いや、ラスボスだ。
 かなりたちが悪い。
 それに比べてこちらは勇者でもなんでもない。ただのスライムだ。呪文も特技もあったもんじゃない。

「そうやってストレスを溜め込み過ぎるから生理不順になる。自殺願望はセロトニンやアドレナリンの不足のせいだ」
 今までの緊張感が一度に爆発した。
 ストレスの元凶は誰だと思っているんだ。
「な、なんでそんなこと、言われなきゃならないんですか!」
 杏珠はほとんど涙目になって叫んでいた。
 甲高い杏珠の声が、人の多い回廊で響き渡った。あわてて、自分の口を押さえる。
 いったい、何をやっているのだろう。
 会ったばかりの神父が、こちらの内情を知るはずがない。
 ただの当て推量だ。
 杏珠は、脳内で“寄りつきたくないタイプの人間”と書いた札をこの神父に貼り付けた。
 決して打ち解けようは思わなかった。
 偏見を持たない人間づきあいなんて、もはやできそうもない。

 観光客たちが一斉に、こちらを振り返った。
 美貌の神父と、いかにもお上りさんといった日本人ツーリストの組み合わせは、すでに好奇の目に晒されていた。
 さらに、今の杏珠の声でそれまで無関心だった者たちの関心さえ引いてしまった。
 通行中の観光客らが遠巻きに様子を見ている。
 いったい何をしているのだろう。
 ここがヴァチカンだということさえ、忘れて感情的になりすぎていた。
 自分に呆れる。恥ずかしさでいたたまれなくなり杏珠は、その場から逃げ出したくなった。



 別に自殺願望などない。
 ただ、死にたくはないが別にいつ死んでもいいか……そんな心もとない、うわの空といった気分が退かないのだ。
 友達と遊んでいても、その場限りの瞬間的な楽しさは味わえても、決して満足できない。
 そんな自分だからだろうか。
 見くびられ、軽んじられるのは、自分自身がいけないからなのか。
 この悪魔のような神父は、どうやって人の心の奥に踏み込んだのだろう。



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