どうしてそんなことを思ったのか。自分でもよく判らない。
 ただ、この眼に惹かれすぎてしまうと、何かよくないことが起きるような気がする。
 惹かれるといっても恋愛のような甘い感覚とは、意味が違う。
 美しいもの神秘的なものへ心を奪われる。そんな感情だろうか。
 ミケランジェロの壁画や彫像たちでさえ、今にも動き出しそうな生々しいほどの躍動感があるのに、この神父は人間らしい血の通った温かさを感じられない。
 まるで岩か石のようだ。
 これほど強烈な存在感があるのに、今ここに本当に存在しているのか。疑いたくなる。

 そういえば、杏珠がこの通路に出てくるきっかけになった右側のペテロの絵だった。ペテロは石という意味があったらしい。
 これが聖職者というものだろうか。
 俗世と隔たりを持つ彼らは、こんなにも現実離れしているのかもしれない。
 神父は、切れ上がった眼を伏せた。
 あの恐ろしいほどの暗い影が消え、光に透けるような金髪がこぼれる。胸が痛くなるほど美しいと思った。
「かまわん。確かにこの目は恐ろしかろう」

 低い感情のこもらぬ声。こちらの考えなどすべて見通されているようだった。
 怒っているのかも分からない。もしかしたら、がっかりしているのだろうか。
 せっかく親切にしてもらっておきながら、こんなことを考えるなんて失礼すぎる。
 誰だって、心が石のはずがない。こちらの勝手な思い込みだ。本当は繊細な人なのかもしれない。
 申し訳ない気持ちになりながら杏珠は、必死で言葉を探した。
「そ、そんなこと……ない、です……ただ、ちょっと、あの……近寄り難い気がして」
 語尾が、小さくなっていく。
 気の利いたことが言えないのは、情けなかった。
 自分の心無い態度で、この親切な神父を傷つけてしまったのかもしれない。どうしよう。
 ここで謝ると、いっそう神父のことを怖がっていると思われはしないだろうか。
 どう言えばいんだろう。
 沙織や曜子ならこんな時、もっと気の利いた言葉が出てくるはずだ。
 それに比べて杏珠は、初対面の相手にどうしても打ち解けて、気安く話すことができない。
 まして相手が聖職者とはいえ若い男ならば、なおのことである。



「近寄り難いのか」
 神父は、腕をつかんだ手を放した。
 そのまま後ろから手をまわして肩に置く。
「へぁっ?」
 頓狂な声が出た。
 我ながら自意識過剰だと思うが、心臓の鼓動は異様なほど脈打っている。
「ならば、こうすればよかろう」
 杏珠を抱いたまま神父は、歩き出した。
 こういうスキンシップもイタリア人だからなのか。
 そもそも聖職者が女性に触れていいのか。いや、そんな考えは時代錯誤なんだろう。
 とりとめのないことが、頭の中でぐるぐる回っている。
 緊張のあまり何もない平坦な床で、つんのめって転びそうになった。すばやく身体を抱きとめられる。
 顔から火をふきそうなほど恥ずかしい。耳が熱い。
 彼は、ごく当たり前のようにしている。
 自分が気にしすぎているだけなのだ。考えすぎだ。馬鹿だ。ドジだ。マヌケだ。
 落ち着こうとして深呼吸するが、かえって呼吸困難になりそうで止めた。
 だが、息を吸い込む時、ほのかな香りが漂う。神父の僧服からだ。
 興奮しすぎて、今までその香りに気がついていなかった。
 香木だろうか。オリエンタルな香りの中に微かに柑橘系の匂いが混じる。
 爽やかなだけではない苦味のあるそんな香りだ。仏事に使われる抹香とはまったく違う。
 教会ではミサの前に香を焚いているそうだから、自然と僧服に染み込んだ匂いなのかもしれない。
 こんな人が現実にいるんだ。
 改めて不思議に思う。

 肩を抱き合って歩く恋人同士をローマに限らずイタリアの街中では、見かけることがよくある。それでも、まさかヴァチカンで、聖職者にこんなことをされるとは夢にも思わなかった。
 通り過ぎる観光客の視線が痛い。
 神父にしてみれば、ただの親切心のはずだ。
 それでも周囲の人々は、あからさまな好奇と非難の目で見ている。
 別にここまでしてもらわなくても一人で歩けるのだが、親とはぐれた子供のように思われたのだろうか。
 外国人から見れば日本人は幼く見えるというし、実際のところ杏珠の身長は神父の肩ほどしかない。
 それとも近寄り難いと言ったのが、まずかったのか。
 肩を抱く神父の手が、ふとした合間に頬や髪に触れる。
 わざとではないのだろう。ひんやりとした冷たい感触がひどく落ち着かない。
 抱きとめられたことを思い出して、頭に血が昇る。
 今の自分は、きっと茹でたタコのように赤くなっているだろう。
 くっつかないように距離を保とうとするのに、神父のほうは引き寄せる。
 僧服の布越しに感じる胸が、驚くほど硬く厚い。そのほっそりした外見からは思いもつかないほどだ。



 回廊を歩きながら神父は、図書館について話してくれた。
 緊張のあまりロボットのような歩き方をしている迷子の日本人に同情してくれたのだろうか。
 それなら手を離してくれたほうがよいのだが、気づいてはいないらしい。
 ヴァチカン図書館はローマ教皇シクストゥス五世が一年かけて建設したもので、所蔵の文書数千点のデジタル化を進めているとか。
 あるいは、17世紀に分離された“秘密文書館”が存在するなど。
 ゆっくりと、低い声でまるで小さな子供に話すように説明してくれる。

「秘密文章って、どんなものですか」
 言ってしまったあとで、聞いてはいけないことだと狼狽した。勝手な想像だが、この神父ならどんな秘密でも、知っているような気がしたのだ。
「あ、でも、本当に秘密なら言っちゃいけませんよね」
「スコットランドのメアリー女王の嘆願書、ミケランジェロが教皇庁に送った督促状、ガリレオの異端審問の記録。こんなものはたいしたものではないが」
「どうして、面白そうなのに」
 思わず杏珠は、振り返った。
 神父の顔が近くなって、また慌てる。
 どうして自分は、いつも余計なことばかり言ってしまうのだろうか。

「面白いか」
 神父は、お互いの吐息がかかりそうなほどの距離から、眉ひとつ動かさずに問いかけてくる。
「……はい。面白いです」
 神父を見ないで、まっすぐに正面だけ見て答えた。
 これは本当だ。決して饒舌ではないのに、彼の話は面白かった。
 ただ、これほど接近しなければ、もっと落ち着いて聞くことができるのに。
 ほとんど泣きそうな気分のまま無理やり愛想笑いをしてみせる。顔の筋肉が引きつりそうだ。
「だって、あの……メアリー・ステュアートって、あの悲劇の女王ですよね。女王としてよりも恋に生きた美貌の、それに……あのミケランジェロが“最後の審判”を描いた時の督促状でしょう?」
 自分でもおかしなほど早口でまくし立てた。
 まるで追い詰められるような気分だった。
「……えっと、その……ガリレオの名誉回復をしたのって、先々代の法王様ですよね」
 数少ない知識を総動員して、話の接ぎ穂を探す。ネットニュースで拾ったネタだ。

「進歩的な考えの持ち主だったからな。二度も暗殺されそうになっている」
 必死な形相が通じたのか、神父は少し顔を離した。
「世には保守的な考えの持ち主が多い。ヴァチカンのガリレオ異端審問の容認発言で抗議運動が行われているぐらいだ」
 あれ? 先々代って、そんなに大昔のことだっけ?
 先代法王も生前退位だったから、先々代が在位のころって、まだ二十世紀よね。
「数年前のことだ」
「嘘……」
「日本では進化論は当たり前のようだが、それを認めない国は多い。“人は神によって造られた”からだ」
 杏珠は、先ほど見た壮大な天井画を思い出した。
 神がアダムに向かって手を差し伸べる場面だ。
「彼らは聖書には誤りがないと信じているようだが、しょせんは人の書いたものにすぎぬものを」
 この神父は、かなり進歩的らしい。
 一般的な日本人としては、なんと答えればいいものか。世界は広い。聖書の話を真実だと考える人もいるんだ。
 言葉に詰まる。彼が身動きするたび、ほのかな香木の匂いがした。



 後ろから日本人らしい女の子たちが、物珍しそうに追い越しながら、わざわざ振り返っている。
 刺すような視線が、猛烈に痛い。
 どこかで自分を探してくれているかもしれない二人の友達の顔を思い出した。
“迷子にならないでよね”と、散々からかわれていたのに、まさか本当に迷子になってしまうとは……。

 謎の神父と、進化論の話をしているというありえない今の状況。
“謎”というのは杏珠が勝手にそう思っているだけなのだが、この神父は目つきが凶悪過ぎる。
 そもそも神父というのは、神に仕える人ではないのか。
 進歩的を通り越して、もはや背徳的だ。
 ファンタジー映画やゲームなら傷ついた仲間を救ったり、守護の力を発揮したりしてくれるものだろう。
 勇者のバックアップをするどころか、モンスターだ。
 いや、モンスターなんて雑魚キャラではない。
 この人は、ゲームの最終で出てくる魔王だ。
 ラスボス……もといヴァチカンの神父は、肩を抱く方の手と反対の手を伸ばしてきた。
 何をするつもりかとたじろいだが、そのまま頬をつままれる。
「ひゃふ……んっ」
 何をするんですか、と言うつもりだったのに気の抜けたセリフしか出てこない。我ながらバカ丸出し。
 これ以上、ものを言うことはあきらめよう。恥の上塗りだ。
「お前は、変わっておらんな」
 つまんだ頬の肉を軽く引っ張りながら、神父は面白そうに言う。
 神父の手は、白い手袋がはめられていた。薄い布越しに氷のように冷たさを感じる。
 今の自分がどんなマヌケ顔になっているのか、と一瞬思ったが、すぐ鼻先まで近づいた神父の眸が凝った血のように紅いのに驚いた。
 瞳孔は黒いが、その周りを取り巻く虹彩は紅い色をしているのだ。
 不思議な色をしているが、その眸には妖しいほど蠱惑的だった。
 底が知れぬほどの暗さは、神よりも悪魔に近いものがある。
 あわてて視線をそらせながら、今、神父が言ったことがひっかかった。
 まるで以前から知っているような口ぶりだ。

「あの……どこかで、お会いしたことありましたっけ」
 神父は問いかけには答えず、杏珠の頬から手を放した。
 声高に喋りながら歩く若いカップルがすれ違いざまにぶつかりかけるのを、杏珠をいっそう強く抱くようにして避ける。
 ただそれだけのことなのに、息が止まりそうな思いがした。
 西洋人というのは、こういうことが当たり前にできてしまうのだ。改めて驚かされる。

「アメリカの推理小説の影響で一時は、ここもずいぶんと賑やかになったものだ」
 彼が言うのは、おそらく何年も前に世界中で話題になったベストセラーのことだろう。
 敬遠なクリスチャンでもない杏珠がこのヴァチカンへ来たのも、その小説を原作とした映画の影響だった。
 センセーショナルな内容から、カトリック教会の反発を招き、多くの研究者による論争が行われたこともあるらしい。
 それをまるで他所ごとのように言う。ほとんど面白がっているようにも見えた。
 神父が話題を変えてしまったので、杏珠にはそれ以上、問いただすことはできない。

「その本がカトリックのタブーに触れたって、本当なんですか?」
 しかたなく杏珠は、神父の話題に乗った。
 どこかで会ったことが……なんて、まるで下手な口説き文句みたいではないか。
 そう思うと、神父が何も答えないことが恥ずかしくなった。
「科学が神への冒涜か否かだろう。先々代の教皇は“進化論”に対してもあいまいな態度をとっていたな」
「それじゃイエスが結婚していたかってことは?」
 まるで芸能人のゴシップを取材しているみたいだ。低俗とか思われるかも。

「イエスの隠し子よりも第二次世界大戦関係の記録だろう」
「なんで、ヴァチカンで?」
「ナチのユダヤ人大虐殺にヴァチカンは沈黙を守ったが、当時の教皇を擁護する態度を今も崩していない」
「それって……なんだか、ちょっと」
 ひどいと言いかけて、口をつぐんだ。
「ローマ教皇の発言は政治的、国際的にも影響力は大きなものだからな。何かと面倒なものだろうよ」
 彼のその口ぶりに奇妙な違和感があった。
 法王への気持ちがこもってないというか。
 いくら流暢な日本語を話すとしてもやはり言葉の違いなのか。そう感じるだけなのかもしれない。

「当時の教皇ビウス12世が昭和天皇から受け取った手紙もあったはずだ」
「日本の?」
 神父は、わざわざその場で立ち止まり小声で囁いた。
「興味があるなら見せてやる」
 杏珠が驚いて眼を見開いていると、こちらを見据える神父の口角がうっすらと上がる。
 からかわれたようだ。
 本気にしてしまったのが、ちょっと悔しい。
 そんなものを一般の観光客に見せてくれるはずがなかった。落胆の気持ちを悟られまいとして、あいまいに微笑んだ。
 神父は、それ以上のことを言わずに、杏珠の腰をさらうようにしてまた歩き出した。

 引き寄せすぎだ。
 そう思ったが、口に出すのは、ためらわれた。
 相手は神父である。
 ローマの街中で、女であれば挨拶代わりに声をかけるようなイタリア男とは違う。
 下から神父の様子を伺おうとしたが、目が合うのが怖くて慌てて視線をさまよわせた。
 もしかしたら見かけによらず、冗談好きな神父のかもしれない。
 できるだけ好意的に考えてみたが、かなりハードな作業だ。

【ヴァチカンのガリレオ異端審問の容認発言で抗議運動】
2008年1月15日にローマ大学サピエンツァ校で前ローマ法王ベネディクト16世の訪問に抗議するデモがあった。
一部教官や学生はガリレオ・ガリレイの唱えた地動説により有罪判決が下された史実について、1990年ローマ法王(当時ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿)の「妥当で正当な判決だった」との発言から「反法王週間」と銘打って反対運動を展開していた。

【メアリー・ステュアート】
スコットランドの女王。父王の死により生後1週間で即位した。在位1542〜1567。同時代のイングランドの処女王エリザベス1世とは対照的に、つねに男性によって人生を変えられたという悲劇の女王。享年44歳。

【ラスボス】
ゲームやアニメ、漫画などで、最後に主人公の前に立ちはだかる敵のボスキャラクター。ラストボスの略。最終ボス。和製英語のひとつ。
ちなみにインターネット上で、ラスボス検索すると小○幸子 の画像が出る。



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