神父から顔を背けたが、いたたまれなかった。
 彼の鋭いまなざしは、そのまま不作法な日本人に向けられた反感か。あるいは嫌悪だったのかもしれない。
 神父や牧師と呼ばれる人は、旧教と新教の違いがあっても、みな優しい人ばかりだと思っていた。
 彼の周囲には見えない壁が張り巡らされている。カトリック総本山に在籍する司祭とは、そういうものなのか。
 遠くで見ていた聖職者たちは、穏やかで優しそうだった。
 彼は、本当に現代の神父なのだろうか。
 まるで暗い中世の遺物だ。
 若いが、近寄りがたい張りつめた緊張感がある。
 魔女狩りがあった古い時代の厳しく冷たい石の修道院で、今も生活している人のようでもあった。
 もしかしたら、悪魔祓いをする司祭なのかもしれない。
 カトリックの世界には、現代でも公認のエクソシストがいると聞いたことがある。
 彼から発散される奇妙な威圧感に杏珠は、震えあがった。
 神父の美貌には、どこか妖しくいかがわしい。


 あたしじゃありません。
 言えるものなら、そう言いたかった。
 考えてみれば、これまでも何度か似たような状況に追いやられたことがある。

 ――誰かの失敗を押し付けられては、その尻拭いをさせられるはめになるのは、あんたがドジだからよ。
 ふと、友人のそんな言葉を思い出す。

 相手からすれば日本人に限らず東洋人は、みな同じように見えるだけだ。
 今の状況では、仕方ないことだ。気にすることはない。
 杏珠は、深く息を吸い込みながら少しずつ後ろに下がる。少しでも神父から離れようとした。
 礼拝堂は、世界中の観光客でいっぱいになっている。
 誰もが立ち止まり(あるいは床に腰を下ろして)巨大な天井画や、正面の“最後の審判”を見ている。身動きするだけで、すぐに人にぶつかってしまう。
 ツアのガイドや友人たちの姿を探して辺りを見回すが、どこにも見知った顔はなかった。はぐれてしまったらしい。
 写真を撮ろうとしていたり、座り込んだりする観光客に職員が注意をしているが、追いつかないほど圧倒的に人が多い。
 こんな迷路のようなヴァチカン美術館の中で取り残されて、杏珠は慌てた。
 礼拝堂の中はガイドの説明が禁止されているから、それぞれ勝手に見学をしているはずである。団体行動をしているわけではない。

 杏珠は、深く息を吸った。
 大丈夫だ。落ち着こう。はぐれたら出口で待ち合わせることになっている。
 考えてみれば子供のころから“迷子”になった経験など皆無だった。まさか大人になって、それも海外でこんなはめに陥るとは。
 泣きたくなる気持ちをこらえて、人ごみの中を慎重に進む。周囲に迷惑をかけるのは申し訳ないし、何より恥ずかしい。
 出口は、巨大な“最後の審判”のある壁側にあった。
 左右に分かれた出口のどちらへ行くべきか。少し迷ってから右を選ぶ。
 深い意味はなかった。たまたま右端のフレスコ画が眼に入ったからだ。どちらを選んだところで、建物の外へ出る前にすぐに追いつくだろう。
 礼拝堂の祭壇に向かって右側の壁には、新約聖書に関するエピソードが描かれている。左は旧約聖書だ。
 ペルジーノの“鍵の委託”イエスが初代教皇ペテロに天国の鍵を授ける場面だ。
 この絵の下にある出口へ向かった。多分、ここから外へ出られるはずだ。そこから先は長い廊下と部屋が続いている。
 もし間違えていれば戻ればいい。そう思うと少し気が楽になった。
 天井、柱、壁には見事な装飾や、数々の絵画、彫刻を見ながら歩いた。
 観光客がときおり立ち止まって、見事な美術品を写真に収めているのは、礼拝堂以外は撮影も許されるからだ。
 様々な部屋をいくつも通り過ぎていくが、見知った顔に会わない。ツアの団体客にも、日本人にも……。だんだんと杏珠は、焦りを感じ始めた。
 もしかしたら最初の出口を間違えてしまったのかもしれない。
 今すぐ礼拝堂へ戻るべきか。立ち止まって考え込んだ。

 今さらながら、たったひとりで言葉も通じない国にいることの不安がこみ上げてくる。
 元の場所へ戻って追いかけようか。今ならまだ間に合う。
 踵を返し人の流れに逆らって、後戻りしようとしたところを背後から強い力で腕をつかまれた。
「ここは一方通行だ」
 腹の底へ響きそうな低い男の声だ。肩がびくっと跳ねあがった。
「どうした。はぐれたのか」
 叱られたのかと思ったが、そうではないらしい。言葉つきは優しい。明晰な日本語だった。
 ――日本人の観光客だ。
 杏珠は、嬉しくなって声の方を向いた。
 もしかしたら同じツアの人かもしれない。ツアの中には壮年の男性も大勢いたではないか。
 振り返ったとたん、杏珠はその場で硬直した。

聖ペテロへの天国の鍵の授与 ペルジーノ
Consegna delle chiavi 1480-82年頃





 そこにいたのは、つい先ほど礼拝堂で会った若い神父だった。
 ホッとした気持ちと、がっくりとその場で座り込みたくなりそうな気持ちがせめぎあっている。
 今、自分はこの日本語の話せる神父に出会えて、嬉しいのか迷惑なのか。
 複雑な思いで、神父を見上げた。
 声の雰囲気では、もっと歳をとっているような気がしたが、三十歳前後だろうか。
 とはいえ、杏珠がそう思うだけで本当は二十代かもしれないし、あるいはもっと年配なのだと言われれば、そう思う。
 外国人は、年齢が判りにくいものだ。
 彼のどこか冷たい印象を与える美貌は、ゲルマン系のものかもしれない。ただ白色人種コーカソイドにしては浅黒い肌の色をしている。
 年齢どころか、人種さえもよく判らない。

「ここは図書館の回廊だ。先へ行くと螺旋階段から外へ出られる」
 流暢な日本語。まるで母国語のように話している。
 杏珠は、おずおずと頭を下げて礼を言った。
 まともに視線を合わせるのが怖い。奇妙な威圧される感じにうろたえてしまう。
 礼を言っても神父は、杏珠の腕を放さなかった。
 痛いほど強い力でつかまれて、どうすればいいのか困惑する。
 体格差のせいなのか。たんに力加減を知らないだけなのか。

「あ、あの……手を放していただけますか。痛いんです」
 うつむいたまま、ようやくそれだけ言えた。
 神父から感じる重い空気に杏珠は、全身を硬直させる。
「人と話をする時には、相手の顔を見て話せと習わなかったのか」
 彼は、杏珠の顔を上から覗き込んできた。
 吐息がかかりそうなほど近くで囁かれて、背筋がぞわっと総毛立つのを感じる。
 陰鬱な眸の底に、暗い色とは相反する燃えそうな強い光があった。
 よく見れば右目の上に包帯を巻いている。
 顔の右半分を髪で隠しているのは、そのせいだろうか。
 残された左の眼光の鋭さは、ただ事ではない。
 射すくめられ、精神を残らず吸い取られて、暗い眸の中に取り込まれそうになる。

「……す、すいません」
 自分でも情けないほど小さなかすれた声がもれた。
 なぜ、こちらが謝らなければならないのか。
 相手の威圧感に負けて、かなり弱腰になっている。
 杏珠を見て神父は、わずかに眉を上げる。
 たったそれだけのことに、心臓が跳ね上がるようだ。
「俺の顔が怖いか」
 そう問いかけられて、はい……とも答えられない。
 冷たい汗が背中を伝うのを杏珠は感じた。
 猛禽のような独眼の鋭さに、子供なら泣き出してしまうかもしれない。聖職者としては、それはどうなのだろう。布教活動に差しさわりが出てくるんじゃないのか。
 底が知れぬほど暗い眸は、凛然とした美貌にあいまって、どこか得体が知れぬ恐ろしさがある。
 だが、そうやって他人の美醜にばかりこだわるのは、あまりにも軽々しい。
 恥ずかしいと思った途端、いっそう顔がほてるのを感じる。
「仕方があるまい。人に好かれるような顔ではないからな」
 こちらの考えを見通すような神父の言葉に思わずうなずきかけた。あわてて顎を引く。

 この人は、親切な人だ。……そう、たぶん。
 だって、こんな大勢の観光客の中でたった一人が困っているのを見逃さないんだから。
 確か、聖書でもそんな話があった。
 神は百匹の羊がいても一匹が迷い出たとすれば、他の羊を山に残しておいても迷う一匹を捜しに行くとか。
 本物の迷子の話とは、違うんだろうけど。
 とにかく、他人に対して偏見を持ってはいけない。親切な神父に対して失礼すぎる。
 杏珠は、自分にそう言い聞かせた。
 それに眼のことを、もしかしたら彼は気にしているのかもしれない。
 片方だけしか見えないのなら、どうしても眼を眇めてしまう。それで目つきが悪く見えるだけなんだ。



「あの、いいえ、……そんな、つもりはないんです……」
 つっかえながら答えると、神父はうっすらと笑う。
 どう言えば、うまく説明できるのか。言葉が見つからない。
 神父は、前髪をかき上げて右に巻いた包帯をあらわにした。
 ほっそりとした顎から頬にかけての線が、とても美しい。
 このまま大理石の彫刻になりそうだと思ったのは、ローマに来てからミケランジェロやベルニーニの作品を見てきたからだろうか。
 わずかに眼を細めて笑う顔が、それまでの厳しい雰囲気を崩し、なんともいえぬ柔らかな表情になった。
 まるでずっと以前から知っているような不思議な親近感が濃い蜜のように、杏珠の中に流れ込んでくる。
 暗い色の眸の奥に、妖しいのほどの甘やかさが溢れるようだ。
 不敵で威圧的なその眼には、息が止まりそうなほどの吸引力がある。





 ──まるで悪魔のように奇麗だ。

 ふいに奇妙な発想が浮かぶ。
 きっと信徒だけではなく、誰に対しても善良で親切な神父なのだろう。
 異教徒の外国人にさえ、こうして手を差し伸べてくれる。
 それなのに、なぜだろう。
 恐ろしいような気がする。
 近づいてはいけない。何かが警鐘を鳴らす。
 まるで蟻地獄の巣に近づく蟻やダンゴ虫みたいに、不自然にすり鉢状になった砂地のすぐそばまで来ている。
 今なら、まだ逃げられる。
 でも、この先に行ったら、墜ちてしまったら。
 二度と這い上がれない。

 蟻地獄は、巨大な顎で獲物を挟みつけ、砂の中へ引き込むのだ。
 たとえば蛾の幼虫のような大きな獲物さえ、どんなに暴れていても毒を注ぎこまれ、自由を奪われる。
 毒は、ゆっくりと回るのだろうか。
 体内の組織は分解して、内側から溶けていく。

【ベルニーニ】
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ。バロック美術を代表する芸術家の一人。
「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛された。 教皇ウルバヌス8世の寵を得て、サン・ピエトロ広場の設計。柱廊、その上に並ぶ140体の聖人像、“ペテロの司教座”“ウルバヌス8世の墓”“アレクサンデル7世の墓”などの制作をする。



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